1.
「新約時代において個人預言は存在しない」
これは、聖書の誤読である。
しかし、もしみなが預言をするなら、信者でない者や初心の者が入って来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなにさばかれ、心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。(1コリント14・24-25)
このような活動が、新約時代に廃棄されたとどこに書いてあるのだろうか。
聖書の中に「聖書66巻が完成された後、集会の中で預言がなされ、個人の心の秘密があらわにされることはなくなる」と書いてあるか。
ない。
愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。(1コリント13・8)
この箇所から「聖書啓示完結後、預言も異言もすたれた」と言えるのであれば、「知識もすたれた」と言えることになる。
ここでは、「愛がもっとも重要であり、預言、異言、知識ですらもそれと比べるならば、むなしいものである」と言おうとしているのである。
聖書完結後、知識がすたれていないように、預言も異言もすたれていない。
この箇所は「預言や異言や知識ですらも、愛ほど重要ではない」と言おうとしている。
2.
ある人についての預言を聞いたら、それを対象者に伝えなければならない。
人の噂話なら伝えないほうがいいことがあるが、預言は「神の、その人に関する御心」であるから、聞いた者は伝える義務を負っている。
もちろんその預言が本当に神のものであるのか、それとも、サタンの偽預言であるのか、吟味が必要である。
吟味は、聖書によって行う。
聖書的ではないものは、伝える必要はない。
しかし、聖書的であれば、何らかの神の御心が示されているのだから、伝えなければならない。
3.
預言を個人攻撃ととらえてはならない。
預言とは、預言者の意思と無関係に「与えられる」ものである。
それゆえ、預言者が、対象者自身しか知らないようなことについて預言することがある。
私も何度か経験がある。
あるクリスチャンから、自分しか知らないことについて警告を受けたことがある。
旧約の預言者は、為政者にとって耳の痛いことを語らざるをえなかった。
それによってエリヤやエレミヤは迫害された。
預言者や預言を伝えた人に敵意を抱くならば、預言者を迫害したイスラエルの王たちと同じ罪を犯したことになり、滅亡につながる。
4.
クリスチャンが他のクリスチャンと絶縁する場合、しかるべき理由がなければならない。
「相手が異端になった場合」と「罪を3度以上警告してもやめない場合」である。
分派を起こす者は、一、二度戒めてから、除名しなさい。(テトス3・10)
また、もし、あなたの兄弟が{あなたに対して}罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。
もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。
それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。(マタイ18・15-17)
これ以外で、クリスチャンと絶縁する人は、神を拒絶したのである。
他のクリスチャンは、神にあって兄弟姉妹である。
すべてのクリスチャンは互いに「キリストの体の一部」であるから、軽々に関係を絶つことはできない。
しかるべき理由を示さないで絶縁する人は、罪を犯している。
ノンクリスチャンなら「気にくわないから」という理由で拒否できる。しかし、霊の兄弟姉妹であるクリスチャンにはできない。
5.
クリスチャンは、積極的に群れを作るべきである。
単独で存在するクリスチャンは、クリスチャンではない。
兄弟姉妹との横の関係がないクリスチャンなど存在しない。
そして、クリスチャンは、兄弟姉妹と積極的に礼拝をともにし、集まるべきである。