信仰義認は契約にとどまり続けることまで保証しない


イエスは、救われるためには、律法を守れと言われた。


もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。(マタイ5・29)

イエスは彼に言われた。「・・・もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」 (マタイ19・17)

これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」 (マタイ22・38-40)

これは、われわれが教会で教えられている「信仰によって救われる」と矛盾するように見える。

パウロは、「行いによるのではなく、信仰による」とはっきり述べた。

人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。(ローマ3・28)

この2つをどう調和すべきだろうか。

イエスは、「救われるには、行え」と言われ、パウロは「行いによらず、信仰のみによる」と言う。

どちらも聖書の御言葉であるから、同時に成立するはずだ。

答えはこうだ。

人間は、信仰によって救われるが、神の主権を認め、服従し続けなければ、救いの中にとどまることはできない。

病院のようなものだ。

入るには、病気以外に資格はいらない。誰でも入れる。

しかし、入った以上は、「治ろう」と努力しなければならない。そうじゃなければ、追い出される。

神の国、契約、教会、キリストの体。

救いはいろいろな言葉で表現される。

クリスチャンになって救われるということは、神の国に入ることである。契約に入ることである。教会に加わることである。

入るには資格はいらない。

ただ「イエスが自分の身代わりに十字架上で死に、よみがえり、そして昇天され、世界の王、主である」と認めるだけでよい。

しかし、入った以上は、そこにとどまり続けなければならない。

そのためには、「戒めを守る努力を続けなければならない」。

同じパウロが次のように述べた。

だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。 (ヘブル10・28)

律法を無視する人は排除される。

あっちゃこっちゃ向いているような人は追い出されるということだ。

まっすぐ前を見て、自分の救いを達成するために努力すること。

御心に服従すること。

失敗したら悔い改めて立ち返ること。

悔い改めることもせず、立ち返ることもしたくないなら、追い出される。

神の国から排除され、御体の中から切り捨てられるから、枯れて、あとは燃やされるだけ。

あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、
盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。(1コリント6・8-10)

「正しくない者」は、救いからもれる、とはっきりと言われている。

だから、ホモのクリスチャンなんてありえない。

偶像礼拝するクリスチャンなんてありえない。

姦淫をするクリスチャンなんてありえない。

人のものを貪るクリスチャンなんてありえない。

万引きをするクリスチャンなんてありえない。

人をインターネット上でそしるクリスチャンなんてありえない。

人の施設を乗っ取ろうとするクリスチャンなんてありえない。

よっぱらいのクリスチャンなんてありえない。

こういうことをしている人は、いくら洗礼を受けたとしても、教会のメンバーであったとしても、長老であったとしても、牧師であったとしても、神の国から追い出される。

つまり、地獄である。

永遠の刑罰である。

ディスペンセーショナリズムに騙されているクリスチャンたちが、倫理にもとることをやって平気でいるが、救われるわけがない。

いつも罪を御前に告白して、悔い改め、やり直す人以外救われない。

 

 

2011年5月27日

 

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