分裂の罪
こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。
この場合、管理者には、忠実であることが要求されます。
しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。
私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。
ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。
さて、兄弟たち。以上、私は、私自身とアポロに当てはめて、あなたがたのために言って来ました。それは、あなたがたが、私たちの例によって、「書かれていることを越えない」ことを学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。(1コリント4・1-6)
1.
伝道者は、「忠実な管理者であることが要求される」。パウロとアポロは、「書かれていることを越えな」かった。
彼らは御言葉に忠実であった。聖書に書かれていることを超えて何かを主張することはなかった。
「書かれていることを超え」るとは、聖書と矛盾することを言うと同義である。
コリントの教会員たちは、彼らを「例」とすべきであった。すなわち、彼らも聖書と矛盾するようなことを主張するようなことがあってはならなかった。
コリントの教会では、党派心によって分裂があった。
パウロ派、ペテロ派、アポロ派などに分かれていがみあっていた。
御言葉に関して異端が出た場合は、分裂するのもやむを得ない。
パウロは、「私たちが宣べ伝えたことと違うことを教える者は呪われるべきだ」と言った。
コリントでは、異端が出たわけでもないのに、「一方にくみし、他方に反対」していた。
この原因は「高慢」にあり、「書かれていることを超え」たからであった。
たとえば、バプテスマの方法について浸礼でなければならないと主張する人々がいるが、聖書にははっきりと「浸礼でなければならない」とは書いていない。
旧約において清めは「振りかける」ことによって実現した。
あなたが、祭壇の上にある血とそそぎの油を取って、アロンとその装束、および、彼とともにいる彼の子らとその装束とに振りかけると、彼とその装束、および、彼とともにいる彼の子らとその装束とは聖なるものとなる。(出エジプト記29・21)
イエスが洗礼を受けて水から出られたとあるので、浸礼でなければならないという人々がいるが、水の中で滴礼を受けたかもしれない。
このように聖書に明確に述べていないことについては、互いに意見を主張しあって分裂するようなことがあってはならない。
妥協すべきである。
しかし、「旧約律法は現代に適用してはならない」と主張するような人々とは分かれるべきである。
なぜならば「律法は信仰を確立する」と書いてあるからである。
それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。(ローマ3・31)
私は、「旧約律法を現代に適用するなどという危険な教え」を唱えたということで断罪された。
これは分裂に値する。神の法の適用を危険視するような教会とは一緒にやっていけない。
さらに「信仰だけでは人は救われず、契約を守らなければならない」というフェデラル・ヴィジョンの教会とも一致できない。
「行い」は「信仰の果実」であって「救いの条件」ではない。
行為義認は、パウロがガラテヤで厳しく戒めた異端の教えである。
2.
パウロは、コリントの教会員から断罪されていた。
「私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。」
この判決は、1で述べたような教理的な重大な誤謬や罪ではなかった。
もしそうなら、パウロは真剣に悔い改めたであろう。
問題は「聖書から教理的誤謬もしくは罪と論証できないような事」であった。
今日で言えば「黒服以外で教会に来る」とか、「酒たばこをたしなむ」とか。
もしそれらが罪であるというのであれば、聖書から具体的に論証しなければならない。
そうではない些細な違いを根拠に断罪するならば、その断罪は「人間による判決」であり、それゆえ「非常に小さなこと」である。
パウロは、自分の罪について悔い改めをしており、それゆえ「やましいことは少しも」なかった。
神との関係で常にへりくだって歩んでいたので、神以外の誰からも責められるところがなかった。
だから人間の前では堂々としていられた。
しかし、これは「神の前でも無罪だ」ということではない。
「だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。」
神の御前において無罪な者は誰もいない。
一瞬でも心の中で罪深いことを考えただけで、われわれは、罪人になる。
人間に対して胸を張れたとしても、神の御前でそれができる人はいない。
次の2つは区別しなければならない。
(1)人間に対してやましいところがない。
(2)神の前でやましいところがない。
われわれは、思い出せる限りの悔い改めをしていれば、人間に対して堂々とすべきである。
しかし、神はわれわれが知らない「悔い改めていない罪」をご存じである。
だから、神の御前では、常に罪人として振る舞う必要がある。
3.
「態度が気にくわない」とか「行動パターンがカトリック的だ」とか、そういった事は、分裂の原因にはならない。
もしそれが分裂の原因になるのであれば、その分裂した人は、神から「自分が断罪するために使った物差しで自分も計られる」。
あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。(マタイ7・2)
それゆえ、われわれは互いに対して違いを認め合うべきだ。
4.
もし人を断罪するなら、具体的に聖書からそれが教理的誤謬もしくは罪であると論証しなければならない。
論証できるなら、それは分裂の理由になる。
しかし、できないなら、分裂は罪である。
2018年5月26日
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