われわれには第3の道はない
クリスチャンになることは、契約の中に入ることである。
そして、契約とはすべてを包括するものであって、一部だけを支配するのではない。
だから、契約に入った以上は、その契約のシステムを通して、すべてのものを見ていく必要がある。
もし契約のフィルタを通して見ることができなければ、その人は、実質的には契約に入っていない。
それは、潜水艦のようなものだ。
潜水艦に入ったら、すべての情報は窓またはテレビモニタを通じて得る。
われわれはイエス・キリストという潜水艇に乗った。
われわれはみな、情報をイエス・キリストの啓示である聖書を通じて得ている。
われわれは、裸の情報を得ることはできない。
聖書において啓示された教えに基づいて事物を解釈するので、われわれの認識は、「神の認識の追認識」である。
神が認識され、解釈されたもの以外を認識できない。
だから、クリスチャンが満足できる教育とは、聖書的教育以外にはありえない。
クリスチャンが本当に一生を神に捧げ尽くすことを希望するならば、子供の教育を聖書的教育に限定するだろう。
われわれはみな、同じ潜水艦にいる。
そして、その潜水艦に入っている以上、溺れて死ぬことはない。
地上が洪水で死滅してもわれわれだけは生き残る。
聖書というフィルタを通して認識しない人は、潜水艦の中に入っていない。
なぜならば、潜水艦の中に入っていれば、窓とモニタ以外の情報入手法はないからだ。
「聖書は参考書程度に読みます」などというクリスチャンは、救われていない。つまり、ノンクリスチャン。
オール・オア・ナッシングである。
潜水艦に乗るか、乗らないか。
乗ったら、聖書的認識の方法を採用するしかない。
だから、聖書以外の方法、たとえば、科学を聖書よりも上位に置く方法を採用するならば、その人は、実質的に潜水艦を降りている。
つまり、洪水において死滅する。
われわれには第3の道はない。
2014年10月10日
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