賢い人は常に合理的な選択をする


心理学とは、キリスト教の「懺悔」「悔い改め」の代替品である。

人間が精神を病む主な原因は「神の法への違反」である。

クリスチャンでしかも精神を病むということは通常ない。

なぜならば、クリスチャンには「悔い改め」というチャンスがあるから。

神の御前に「自分が行ったことをありのままに」告白し、「ごめんなさい。もうしません」と言って、それを行動に移すこと。

これが悔い改めである。

悔い改めをすれば、心に平安が戻り、精神は正常化する。

悔い改めをせずに、頑固に突っ張り通すと、次第に精神が異常になってくる。

我を張り、ねじくれた状態が固定化する。

異常がその人にとって正常になるので、性格がゆがみ、人格異常者になる。

自分が悔い改めを回避して生きてきた領域は、他人が触れることのできないタブーの領域である。

ある人は、ボロい車を集めるという変なこだわりがある。

極貧の生活をしているのに、駐車場を借りて廃車を保管する。

明らかに異常な行動なのだが、そのことについて触れると逆上する。

いわゆるごみ屋敷の住民とは、「悔い改めを拒否する頑固者の成れの果て」である。

彼らは「小さな神」なのである。

心理学というヒューマニズムが用意した「代替懺悔部屋」に逃げ込む人々も同じように「小さな神」である。

心理学で何が解決するというのか。

人間は、どうあがいても、被造物という地位から逃れることはできない。

つまり、われわれはみな、常に神の裁きの座に座っている。

われわれの行動はすべて評価の対象となっており「罪を犯しても罰を受けない」可能性はまったくない。

神を否定しても、それは自分の内面だけの話で、現実として裁きは必ずやってくる。

「神に告白して、自ら行動をただす」。

ただこれだけだ。これさえできれば、精神科に通うために費やす膨大なお金を節約できる。

ちゃんと舗装された正しい道を見ても、プライドがそこを歩ませない。

足をひきずり、傷だらけになりながら砂漠や沼の中を進む。

そんなチンケなプライドは捨ててしまえ。

賢い人は、常に合理的な選択をする。

 

 

2016年11月17日



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