聖徳太子の時代の日本はユダヤ人キリスト教徒によって支配されていた?


1.

故江上波夫氏がこのように言ったそうである。


二世紀に日本に入ってきた基督教は景教じゃなくて、原始基督教が直接入って来たものです

http://tocana.jp/2016/11/post_11396_entry_3.html

私は、聖書から、キリスト教は一世紀に入っていたと主張する。

なぜならば、紀元70年に神殿崩壊があり「天地が崩壊」したからである。

文字通りの天地崩壊ではない。

旧約の預言書が言うそれである。

預言的表現では、天地崩壊とは、体制の大転換を意味する。

紀元70年に、神殿崩壊が起きて、メシアの時代が始まった。

イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。」(マルコ9・1)

ここで、紀元70年が「神の国の到来」と言われている。(*)

宣教とは、「神の国の到来」を告げ知らせ、悔い改めて、イエスを信じるように促すことであった。

この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4・17)

この紀元70年の体制大転換が近づく前に、福音は世界中に伝えられた。

ペテロはバビロンに、トマスは中国まで赴いた。

文字通り弟子たちは世界宣教を行った。

この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。
(コロサイ1・6)

日本には紀元前から契約の民であるユダヤ人が来ていただろう。

わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、彼を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのです。(マタイ23・15)

「海と陸」つまり、海路も陸路も利用したということだ。

ラビ・トケイヤー氏によると、紀元前2世紀にはすでに世界の各地にユダヤ人の集団がいた。

当然日本にも来ていたに違いない。

私は、紀元前3世紀に来日した徐福率いる3000人の渡来人にもユダヤ人がいたと考える。

パウロの伝道方法から、宣教の手順は「まず契約の民、次に異邦人」であったと推測できる。

そこでパウロとバルナバは、はっきりとこう宣言した。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。(使徒の働き13・46)

使徒もしくは使徒の弟子たちが、紀元1世紀に来日し、福音を述べ伝えたはずである。

2.

聖徳太子の母親である穴穂部間人皇女はペルシャ人であった。

間人(はしひと)=波斯人=ペルシャ人

ということは、聖徳太子もペルシャ人。

当時、ユダヤ人は捕囚後ペルシャに多数残り、ペルシャ人となっていたから、聖徳太子がユダヤ人であった可能性がある。

側近であった秦河勝の一族「秦氏」が景教徒であったことを考えると、キリスト教徒だったのではないかと推測できる。

秦河勝を祭神とする大避神社にある秦河勝のお面は、鼻が高く、外人顔である。

http://www.millnm.net/img/1483033764323421492859128.png" >

聖徳太子の時代、日本はユダヤ人クリスチャンによって支配されていたのではないだろうか。

(*)
これは、いわゆる、今のクリスチャンが言う「世界の終末」を指しているのではない。なぜならば、「決して死を味わわない者がいます」と言われているので。つまり、紀元1世紀の話である。

 

 

2017年4月22日



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