「とげ」は必要である
(1)
また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。(2コリント12・7)
「とげ」は、動くと何かに触れる。
触ると痛い。
人間には、「とげ」が与えられる。
それは、高ぶらないための神の杖である。
「とげ」は、「自己愛」が膨らむと、プライドを傷つけるように設定されている。
パウロは、目の病気のゆえに、著しくみにくい外貌をしていた。
パウロはエリートであり、自分の家柄、毛並みのよさ、義人らしさを自慢できる立場にあった。
ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。
私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。(ピリピ3・4-6)
しかし、この病気のゆえに、自慢ができない。
自慢し始めると、目の病気が思い出される。
自己愛が膨らまない。
(2)
「とげ」がない人間は、妖怪になる。
ボディビルで、薬を使って筋肉を肥大させると、かえって気持ち悪いからだになる。
普通の人は、自己愛が肥大しないように憐みとして各自「とげ」を与えられるが、少数の「みせしめのために神に放置された人」の場合、それがないため、自己愛が止まらなくなり、妖怪化する。
(3)
「これさえなければ、幸せなのに」と思うことは、大体、自分を滅亡させないための道具である。
われわれは、「この病気さえなければ…」とか「お金さえあれば…」とか「美貌さえあれば…」とか思うものだが、そういう欠点は、神がわれわれが傲慢になって滅亡しないために与えてくださったブレーキなのだ。
欠点がないことは、怖いことだ。
傍若無人に振る舞う鼻持ちならない人間になって、自滅する。
われわれの周りで「傲慢な奴だ」という印象を持った人間は、だいたいその後、変なことが起きて失脚するものである。
高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。
人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。(箴言16・18、18・12)
2014年7月28日
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