安息日の律法は廃棄されたのではなくイエス・キリストへの信仰によって確立された2



富井様がかみくだいて分かりやすく教えてくださいましたので、聖書というのは私たちが正しく生きていくための方法やそのために必要なことが懇切丁寧に指南されているありがたい書物なのだなぁとつくづく感心しました。

休息についても、罪を犯してしまったときの対処法にしても、非常に利にかなっていていちいち腑に落ちます。

サタンの陰謀とはいえ、このような便利でありがたい神様の御言葉が歪められたり、汚されたりしていることが本当に苛立たしく悔しいと感じます。

富井様のご活動がますます世界に広がり、神様のお造りになった美しく素晴らしい世界が広がりますよう、心からお祈りします。

ありがとうございます。

このように活動できるのも、すべては神様の恵みでございます。

旧約の経綸(神による人間の取扱いの方法)と新約のそれとはまったく異なっています。

それは、前者が民族的であるのに対して、後者は超民族的です。

神は、イスラエルを諸国民のモデルケースとして選ばれました。

旧約時代においては「イスラエル民族=契約の民」でしたが、旧約時代においては「全民族=契約の民」になりました。

イスラエル民族への取り扱いを通じて、神がどのように契約の民を取扱われるのかが、啓示されました。

ですから、ユダヤ人が今日「われわれこそ、全世界を征服すべきだ」というのは間違いです。

聖書は、特定民族による世界支配を教えている民族主義の書物ではなく、「各民族から選ばれた契約の民(クリスチャン)による世界支配」を教える書物なのです。

もちろんここで言うクリスチャンとは、今一般に認識されているローマ・カトリックやプロテスタントの「必ずしも聖書啓示を絶対的権威としない」クリスチャンを意味しません。

クリスチャンとは、「聖書啓示を絶対とし、聖書の神を絶対主として礼拝する人々」を意味します。

この本当の意味でのクリスチャンこそが、世界を支配すべきであり、それゆえ、今の聖書啓示を無視する人々は追い出されるべき対象です。

「地を従えよ」と命令されているのは、堕落前のアダムとノアですが、いずれも神の主権を絶対視する人々でした。

旧約時代にイスラエル人(ユダヤ人)に対して神が「祝福を与える」と言われたのは、「契約の民として神を絶対主として従う人々」のモデルとしてであり、民族そのものに対してではありません。

ですから、今日神の戒めを破り、悪魔礼拝しているイルミナティのユダヤ人が祝福されるべきではない。

旧約時代にイスラエルに与えられた様々な律法は、「諸国民のモデルに対するそれ」なのです。

ですから、モデルの時代が終わって、本体の時代になった新約時代において律法も「本体に対するそれ」として解釈する必要があります。

つまり、「民族的律法」は「超民族的律法」として解釈すべきです。

イエスが「わたしは律法を廃棄するために来たのではない」と言われ、パウロが「信仰は律法を廃棄せず、むしろ確立する」と述べたように、律法の中で捨てられたものは一つもなく、すべて確立され強化されました。

安息日の律法は、「神にあって安息すること」を命じたもので、それは「イエス・キリストにおいて安息すること」という命令に変化し確立されました。

神にあって安息することとは具体的に1週間に1日休み、7年に1日休み、50年に2年休み、元旦に休むこととして「時間的な規則」として設定されているので、新約時代においても「時間的な規則」として受け取る必要があるのではないかと思います。

しかも「クリスチャンは互いに励まし合うために集まるように」と命令されていますので、原則として週に1日礼拝のために集まることはその具体的な実行として奨励されるべきだと思います。

つまり「イエス・キリストにあって安息は与えられているから、週日礼拝、安息年…は無視してもいい」ということにはならないと思います。

 

 

2014年10月21日



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