福音派はディスペンセーショナリズムを通じてイエズス会化された


「メシアはまだ来ていない」という考えは、ユダヤ教のそれである。

ユダヤ教において、ナザレのイエスはメシアではない。

「メシアはすでに来られた」という考えは、イエスの弟子たちのそれである。

そして、福音書では、はっきりと「神殿が崩壊するときが再臨である」と記されている。


イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」
イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」(マタイ24・1-3)

「いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」

つまり、ここで弟子たちは、「神殿崩壊」=「再臨」=「世の終わり」と言っている。

神殿はいつ崩壊したか。紀元70年だ。

紀元70年=再臨=世の終わり。

つまり、メシアは、すでに来られた、というのが福音書の主張だ。

しかし、ユダヤ人は、イエスをメシアと見ていないので、初臨も紀元70年の再臨もメシアの到来とは見ていない。

ローマ・カトリックにイエズス会が入り、このユダヤ人の考えが入った。

ヴァチカンに対するユダヤ人の支配は、徹底していた。『信仰教義会』の会長を務めていた枢機卿ジョセフ・ラッツィンガー(後のベネディクト16世)は、「メシアはまだ来ていない」とのユダヤ人の見解を取り入れたカトリックの信仰教義を正式に発表した。

イエスを公然とは否定していなかったが、メシアが未来に来臨するというユダヤ人の考えを受け入れていた。

カトリック教会は、かなり以前にイエスの贖いの務めを拒否していた。

このユダヤ的/カトリック的な教義の原案は、アルベルト・ヴァンホイェという名のイエズス会士によって作られた。

(Melinda Henneberger, Vatican Says Jews' Wait for Messiah Is Validated by the OldTestament, New York Times, January 18, 2002,http://www.hughhewitt.com/past_news_)

カトリックの教義の責任者であったジョセフ・ラッツィンガー枢機卿が、イエズス会士アルベルト・ヴァンホイェの「メシアが未来に来臨するというユダヤ人の考え」を受け入れた。

つまり、タルムードユダヤ人=イエズス会=「メシア未来来臨説」=ローマ・カトリック。

このタルムードユダヤ人に毒されたローマ・カトリックのエマニエル・ラクンザがディスペンセーショナリズムを作った。

福音派が、ジョン・ダービーやサイラス・スコフィールドを通じてディスペンセーショナリズムを受け入れ、教会の中に「メシア未来来臨説」が入った。

そのため、今の福音派の教会では「紀元70年=再臨=世の終わり」という福音書の教えが退けられている。

福音派のクリスチャンは、この「石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません」という神殿は、将来エルサレムに建設される神殿を指しているという。

しかし、イエスは、はっきりと言われた。

「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。」(ルカ21・6)

「あなたがたの見ているこれらの物」。

あなたがた=弟子たち

あなたがたの見ている=弟子たちが見ている

あなたがたの見ているこれらの物=弟子たちが見ているこれらの物

つまり、神殿とは、イエスの時代に立っていた神殿であり、われわれから見て未来の神殿ではない。

福音派は、完全にタルムードユダヤ人に洗脳されてしまった。

福音派は、ディスペンセーショナリズムを通じてイエズス会化された。

 

 

2015年4月21日



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