規則は少なければ少ないほうがいい
(1)
社会の理想は、次第に規則が減っていくことである。
監視や規則が必要なのは「子供」であり、大人になれば、信頼されるので、規則が少なくなる。
子供のころは、門限があったが、大人になれば、自由に行動できる。
細かい部分まで規則が必要になるのは、「常識がない大人が増えているから」である。
私が大学生のころは、夜でも自由にキャンパスに入れた。
門はいつでも開放されていた。
学生運動で問題が起きてから夜間に門が閉められるようになった。
社会の大多数が道徳律を守ることができれば、本来、規則は最低限でよいのだ。
秩序が保たれている地方では、家に鍵をかけない。
放送倫理を守るためとかいう目的でBPOが規制をかけているのは、マスコミがあまりにもやんちゃをやりすぎて、常識のないことをやってきたツケだ。
規則や規制が増えることによって、文化は徐々に死んでいく。
神の法は、613しかない。
http://p.tl/HoMo
それに対して、日本では新規立法は、毎年50〜70本ぐらい。
12年で神の法を超える。
アメリカでは建国以来、2万の法律が制定された。
http://p.tl/AtEG
最近、法律の制定数は増加傾向にある。
「規制が増えれば、良い社会ができる」というのは幻想である。
神の法という基本法を破ることは自由化ではなく、奴隷化である。
子供のしつけがしっかりせず、無法者が増えれば、殺人や盗難が頻発し、規制をかけざるを得なくなる。
結局、「一」の部分で妥協することによって、「多」の部分は犠牲になるのだ。
(2)
神の法は、その多くが否定命令である。
「〜してはならない。」という法である。
十戒のうち8つは否定命令である。
なぜならば、神の御心は、人を自由にすることにあるから。
「私の前に他の神々を置いてはならない」という否定命令は、それ以外であれば、神を自由に礼拝できるということだ。
朝起きて礼拝してもいいし、夜中でもいい。
日曜日でも月曜日でもいい。
海辺で礼拝してもいいし、山の中でもいい。
教会でなければ礼拝できないというわけではない。
人間は、勝手にいろいろな規則を作りたがるが、神はそうではない。
ある教会では黒服でなければ不信仰と思われるそうだ。
そのような規則は聖書にはないので、どうでもいいことである。
「教会には黒服で来なければならない」という肯定命令が増えるならば、次第に礼拝が形式化し、内容がどうでもよくなっていく。
規則はできるだけ少なく、伝統も、習慣も、無意味なものはできるだけ減らすべきだ。
2014年2月25日
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