修練によって権能が与えられるようになる?


一緒に活動してきたKG氏だが、いくつか誤謬があるので完全一致はしていないことをご理解いただきたい。

KG氏は、「今、クリスチャンは、悪の働きを悟る権能を与えられていないから与えられるように祈っている」という。

私は何度も何度もくりかえして「クリスチャンはすでに権能を与えられている。イエス・キリストにつくならば、賜物の違いにより大小差はあれど、悪の働きを見分ける権能を持っている」と説明してきた。

しかし、頑固に「いや、まだクリスチャンには与えられていない」という。

聖書では、クリスチャンは、王・祭司・預言者である。

旧約時代においてそれぞれ別の人が担当していたが、新約時代において、万人がこの三重の使命を帯びている。

だからわれわれは、王として世界を統治し、祭司として世界を聖め、預言者として御心を悟り、それを世界に通知する。

クリスチャンは、キリストにあって、キリストと同じ権能を持っているというのが聖書の主張だ。

しかし、KG氏は「ただのクリスチャンではだめだ。もう一歩高い状態に至らねばならない」という。

こういう考えは、「知識による救い」を説くフリーメイソンの考えである。

クリスチャンはキリストにつながるときに、一挙に天に上り、キリストの王座に座るが、グノーシス主義のフリーメイソンは、「段階を踏んで権威の階段を登って行く」という。

イエズス会のローマ・カトリックが修養を強調するのは、グノーシスの影響である。

イエス・キリストによる救いではなく、人間の修練にともなって救いが達成されるというものである。

もちろん聖書は修練を否定していない。


肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。(1テモテ4・8)

しかし、それは、救いの手段ではない。

霊的鍛錬によって、権能のない状態から権能のある状態に変化するわけではない。

クリスチャンはクリスチャンになった時点で権能を持っているのだ。

ただ、信仰の大小によって、働く力が違うという差はある。

しかし、それは「量的差」であって「質的差」ではない。

KG氏が以前属していた教団が、カトリック的な部分を持っていたので、彼はそれを引きずっているのかもしれない。

クリスチャンに、一級市民と二級市民を分けるいかなる思想も排除すべきだ。

クリスチャンは、キリストにあって質的に平等である。

 

 

2013年5月13日



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