トマス・アキナスは「偉大な」神学者だった?





はたしてトマス・アキナスは、「偉大な」神学者だったのだろうか。

ヴァン・ティルによれば、トマス・アキナスの思想は、神中心主義ではない。

なぜならば、その神の定義が異教的だから。

トマス・アキナスの神とは、「完全に自律した思考者(self-thinking Thought)」である。

「完全に自律した思考者(self-thinking Thought)」とは本来「他のいかなる者にも影響されず、完全に独立して考え、完全に独立した意見を持ち、独自に判断を下す」という意味である。

また神は「行為の源(pure Act)」であり、無限の力あるエネルギーである。

「行為の源(pure Act)」とは、本来、自らは変化したり成長したりすることなく、常に完全であり、もっぱら他者を動かす者という意味である。

これが、聖書的な神観である。

しかし、トマス・アキナスにとって、神は聖書の「有りて在る者」、つまり「存在の根源」ではない。

また、「他者を存在たらしめる者」、つまり創造者でもない。

存在の根源ではないので、現実に存在するものについてであれ、存在する可能性のあるものについてであれ、全知ではない。

創造者でも全知者でもないので、摂理の神でもない。つまり、万物の存在を維持し、統治する神でもない。

トマス・アキナスの「至高の思考者」は、存在についてpure Actではない。それゆえ、その自己認識(self-knowledge)には、必ずしも既存のものであれ、未来のものであれ万物に関する知識は含まれない。トマス・アキナスの神は摂理ではなく、自らの創造の範囲外の世界…についても知識がない。…

トマス・アキナスの神とキリスト教の神との間には大きな違いがあるようだ。トマス・アキナスの神は、世界を創造せず、世界について知りもしない。

もしそのような神が、信仰によって照らされることのない理性の活動によって自然に得られるものであるならば、神に関して判断する際に、信仰が理性の決断を覆すべきであると、言えないだろうか。

本質しか扱わない哲学は、現実の上を浮遊するばかりで、けっしてそれに触れないメリーゴーランドに似ている。しかし、ローマ・カトリックによれば、キリスト教神学者としての聖トマスは、自律的思考者としての聖トマスに対して、神存在に関する根本的な問題について自らの判断を覆すように求める必要はないという。

(C. Van Til, The Defense of the Faith, P&R, p.134)

ギリシア思想において、神の創造は、すでに存在する「自然」に追加されたものである。

万物の究極は「自然」であり、「自然秩序」である。

神は、その自然に対して主権者ではなく、それについて完全な知識もない。

しかし、聖書によれば、神の創造は「無からの創造」であり、神の創造の前に自然はなかった。

全存在が、神の御手によるものであるから、全存在について神は権威者であり、全存在について完全な知識を持ち、それを御心のままに動かしておられる。

神の配慮外で起こることはない。


二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。(マタイ10・29)

トマス・アキナスは、神中心主義でもなく、それゆえ偉大な神学者でもない。

トマス・アキナスは、キリスト教の外貌を持つ「ギリシア思想家」である。

彼の仕事は、「信仰を守り、人間理性の自律的活動に道を開いた」のではなく、「信仰を破壊し、人間理性オンリーの近代思想に道を開いた背教者」である。


(先ほど、かなり眠たい状態で書いたので、トマス・アキナスをアリストテレスと間違えた文章を書き、阿部先生の意見を勘違いして批評も書いてしまいましたが訂正します。陳謝します。)

 

 

2016年1月26日





 

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