われわれの使命は生きて地上に御国を建てることである
ある教団では、医者にかかると不信仰と呼ばれるそうだ。
また、ある教団では、殉教することが貴ばれる。
ロシア正教史の中では、自分をつまづかせる体の部分を切り落とす極端な教派があった。
これらは、すべて聖書を間違って解釈している。
クリスチャンは、積極的に命を求めなければならない。
生きることができる機会があれば生きる。
治療方法がある場合には、それを利用する。
薬があれば、それを飲む。
殉教せずにすむならば、積極的に逃げる。
これが、クリスチャンとして正しい態度である。
「死ぬことを求める」思想は聖書にはない。
旧約聖書では、「死体に触れると穢れる」という教えがあった。
神の契約の民は、「命の民」であるから「死」を遠ざけなければならない。
衛生律法も「命を積極的に求めよ」という教えである。
積極的に殉教を求めたり、体の一部を損なったりするような教えは、異邦人が教会の主役になってから入ったギリシア禁欲思想の影響である。
クリスチャンは、最善を尽くして健康になることを求めるべきだ。
「信仰があれば医者にかかる必要はない」などということはまったくない。
信仰によって治るのは、人間の側で最善の努力をしてからだ。
六日働いて、一日休め、という原則は、「人間の側では、健康になるため最善を努めよ」と教えている。
ある教団では、貧乏になることを勧める。
高い車に乗っていると不信仰とみなされる。
まったくナンセンスである。
もし貧乏が善であり、御心ならば、どうして申命記において祝福を「あなたは隣人に貸すが、あなたは誰からも借りない」と定義しているのか。
死、不健康、借金、貧乏、…
こういったものは、クリスチャンが避けるべきものである。
われわれは、最善を尽くして薬を手に入れるべきだ。
医学の発展を期待し、また、それに参加すべきだ。
経済の発展を期待し、また、それに参加すべきだ。
西方教会の教父の中には、迫害を回避するチャンスがあるのに、積極的に捕まって処刑された人がいて、彼は聖人とあがめられている。
ローマ・カトリックでは、殉教者を過剰に貴ぶ傾向がある。
ロシア正教でも同じだ。
聖書が主眼としているのは、十字架よりも復活である。
贖いも重要だが、それ以上に復活が重視されている。
クリスチャンは命の民として永遠に生き続けることが強調されている。
だから、われわれの行動原理も、「生存と繁栄」に基づくべきだ。
三浦綾子の「塩狩峠」は、峠で汽車から切り離された客車の暴走を止めるために自分の体を下敷きにして死んだクリスチャンを賛美している。
映画を見る限りでは、周りは雪なのだから、乗客は飛び降りるべきだった。
飛び降りても、わずかな怪我で済んだだろう。
主人公である国鉄職員がまずすべきだったのは、乗客を飛び降りさせることだった。
そういう手段をすべて講じた後、万策尽きたのであれば、犠牲となることは美談になるだろう。
しかし、私にはそのように思えない。
主人公は、死ぬことを愛していたのではないかと思う。
キリスト教は、禁欲思想ではない。
異邦人の禁欲思想の影響を受けたこのような間違った教えが、2千年も教会の中で唱えられてきた
われわれの使命は、「生きて地上に御国を建てることである」。
2011年4月3日
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