神は善人を残し、悪人を消し去り給う
幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。
それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。
まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。
(詩篇1・1-3)
不幸になるための条件は、「悪者」「罪人」「あざける者」になることである。
「この世で善人はひどい目にあう。だから悪の道に入ろう」という人は最終的に不幸になる。
神の法を破って幸せになれる人などいない。
人をバカにして幸せになれる人などいない。
私が人生で後悔していることは、ノンクリスチャンの教育を受けたことである。
進化論の世界観では、倫理は幸せと無関係である。
正しく生きることと、幸せに相関関係があるとは教えない。
だから、学校を出た多くの人々が不幸な道を歩んでいる。
テレビに出て、多くのギャラを稼いで、CDをミリオンセラーにして、はたして幸せになっているだろうか。
サタンは、少数のショーウィンドウ用のマネキンを養成する。
その人たちには、お金や栄光を与える。
オカマで成功した人とか。
彼らを裏切るのは、最後の最後である。
それまでは、あたかも幸せに見える生活を与える。
人々を惑わすためである。
人々は「オカマでも同性愛者でも成功して幸せになれるんだ」と思う。
そして、彼らに対する正常な感情や感覚をマヒさせるのである。
世間の同性愛に対する嫌悪感が薄らいだころに、サタンは、そのマネキンたちを処分する。
彼らが悲惨を体験しはじめたころには、世間の人々は彼らのことを忘れている。
だから、結末が見えづらい。
知恵のある人は、最初から最後まで、彼らがどういう運命をたどるかを注視する。
サタンは、スターやアイドルになって世間でちやほやされる間だけを見せようとするが、知恵のある人は、最後まで見届ける。
「悪者」「罪人」「あざける者」たちがどういう末路をたどるかに注目する。
幸せになる条件とは、「主のおしえを喜び」「昼も夜もそのおしえを口ずさむ」ことである。
偽りを退け、正しい教理を喜んで学ぼうとする。
そのような人は、「水路のそばに植わった木」である。
「水路」の原語には複数形が使われているので、これは、複数の水路の間に挟まれた「水の十分にある土地」に生えている木を意味する。
正しい教理を学ぶ人は、豊かに水が吸収できる環境にある「潤っている木」である。
潤っているので、「時が来ると実がなり、その葉は枯れない」。
木にとって実とは、その人が受ける神からの評価を意味する。
神は、正しい人に、豊かな報酬を与えられる。
多くの人は、このような報酬に注意しない。
最終的に正しい人生を送った人に贈られる神のプレゼントに着目しない。
だから、目先の利益に飛びついて「悪人のはかりごと」に参加し、「罪人の道に立」ち、「あざける者の座に座」る。
彼らの最後は、「風が吹き飛ばすもみがら」である。
脱穀の際に、実は下に落ちるが、もみがらは軽いので飛んでいく。
そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。…(ダニエル2・35)
「もみがら」とは、「あとかたもなくな」る、つまり、消滅の象徴である。
悪人や罪人や傲慢な人々の結末は、消滅である。
人々の目の前から消えてしまう。
パソコンの梱包材のようなものである。
パソコンは残るが、梱包材はゴミとして処分する。
家の中に梱包材を大切にとっておき、パソコンを捨てる人はいない。
それと同じように、社会の中でこれらの人々は不要な存在として消えてしまう。
かつて威力を誇っていた為政者も、悪人はことごとく神によって排除される。
まさに「悪が栄えたためしがない」のである。
反面、善人は、「何をしても栄える」。
最終的に、神は善人を残し、繁栄を与えられる。
この世界は神の創造なので、神は、善人を残し、悪人を消し去り給う。
2017年6月21日
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