世俗の「可能性思考」では、「自分自身を信じなさい!」と教える。
しかし、聖書は「自分を信じるな」と教える。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。 (マタイ5・3)
すでに述べたように、「心の貧しい」とは、「心において極貧の」と同義である。
極貧の人は、自分の資産に頼ることができない。
それと同じように、心が極貧の人は、自分の心に頼ることができない。
自分が裏切り者であり、邪悪であることを知っている。
もちろん、人と人の間を比較しての話ではない。
神の前に出たときに、である。
われわれは、状況が変われば人を裏切る者であり、場合によって邪悪になりうる者である。
人は、戦場で殺戮を繰り返すうちに人を殺すこと、残酷なことをすることが何でもなくなる。
人間は、神の支えがなくなれば、どんどん堕落する。
神の御前に出て、自分の心のどこの部分を見ても信頼に足るところがないと気づいた人は幸いである。
その人は、神に依存するようになる。
個人についてだけではなく、社会についてもわれわれは自分を信じることをやめなければならない。
社会的に地位が上がること、名誉を受けること、勲章をもらうこと、人から尊敬されること、こういったことに希望を持っている間は「心が貧しい」状態とは言えない。
この世界は、今や、イルミナティの神、サタンを跪拝しない限り、やっていけないくらいに堕落し、占領されてしまった。
このような世界で偉くなることに何の意味があるのか。
ディスペンセーショナリズムに汚染され、プレ・ミレの悲観主義的な終末論によって不信仰に陥ったキリスト教界、福音派の中で評判を獲得し、偉くなり、指導者になったからそれが何だ。
聖書すら毀損されていることが明らかなのに、何も対策を講じない集団において出世したからいったい何がいいの?
人の歓心を買うことを第一とするような教会成長学に汚染されたキリスト教界で孤立することに何か不都合なことがあるの?
「人間に信頼する」ことは「心が貧しくない」ことである。
人間に頼れないことを悟ったときに、はじめてわれわれは「幸い」になる。
人に頼るのではなく、祈ることによって切り抜けることを学ぶならば、その人は神に大きく用いられるだろう。
しかし、大多数の教職者は、「孤立したくない」と思っている。
「ポスト・ミレを信じて変人と思われたくない」「再建主義の仲間と思われたくない」と。
こんな人の目を気にするなら、別の仕事を選択したほうがいい。
全部捨てる気がないなら献身とは言わない。
「あの教団から嫌われたら食っていけなくなる」???
エリヤは、干ばつのときに、誰に養われたか?
大教団か?王様か?
王様には嫌われた。王様おかかえの預言者たちとは戦った。
誰に養われたか?
カラスだ。
「・・・そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」
それで、彼は行って、主のことばのとおりにした。すなわち、彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。
幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。(1列王17・4-6)
その川も枯れた。
神は金持ちを遣わしただろうか。
やもめだ。
「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」(17・9)
極貧の未亡人に頼れと。
頼れない者に頼れと。
神は、カラスとか未亡人とかに頼れる信仰の人でなければ用いることはできない。
つまり、その背後にいる神にのみ信頼できる人でなければ用いることはできない。
大教団とか、政治権力に頼るような人は俗物である。
よく新興宗教の教祖が、政治家やローマ法皇のような世俗的権威と対談したり、写真に収まったりしているが、あれは、弱さの現れである。
自分に権威を付けるには、世俗的権威を利用しようと。
神によって権威を付けられないので、世俗的権威を付けようとする。
神を信じることができない間は、金持ちや有力者など、世俗的権威に信頼する以外にはない。
世界の金融システムはロスチャイルドのイルミナティに握られているから、金持ちや有力者に頼ることは、イルミナティに頼ることにほかならない。
つまり、この世の力に頼る人は、結局のところ、サタンを崇拝しているのである。
サタンとの絆を切るには、信仰を身に着けるしかない。
神にのみ信頼するときに与えられる支えを体験を通じて学ぶしかない。
そのときに、本当の力が与えられる。
人や社会に救ってもらおうとしているうちは、半端者である。