自分の身を害さないために


1.

ネガティブ思考は必ずしも悪ではない。

神を恐れるべきである。

神に対しては、ネガティブになるべきだ。

人を恐れてはならないが、神は恐れるべきだ。

牧師や伝道師は個人としては恐れるに値しないが、神に立てられた役職としては恐れるべきである。

舐めるとろくなことはない。

これは私の長い経験からはっきり言える。

ある牧師に執拗に食い下がり、妨害する長老がいた。

突然死した。

神の国の活動をしている牧師や伝道師の妨害をして何も起こらないとしたら奇跡である。

恐れる対象を間違っているのではないか。

2.

たとえば、ある牧師が罪を犯しているとし、その牧師に忠告する人がいるとする。

牧師は自分に対して忠告したことを根に持って嫌がらせをした。

神の目から見て、その牧師が悪であるから、神は牧師を裁かれる。

この場合、忠告者は人を恐れるべきではない。

しかし、牧師がその忠告した罪を犯していない場合、神は彼を悪と見ず、それゆえ牧師の権威を保持される。

忠告者は、自分で罪を証明しない限り、無実の人を訴え続け、その牧師の活動を妨害することになるから、彼に裁きが下る。

3.

どんな呼びかけも無視するようなら、傲慢から来る頑固に陥っており、裁きが近い。

神は、何度かの語りかけの後に、人を頑固にする。

いかなる歩み寄りも拒否するようになる。

あとは自滅である。

私は何人もこのようにして滅んでいった人を見てきた。

異端以外の場合は3度。異端の場合は1,2度。

聖書が示す忠告の回数は限られている。

4.

自分の殻に閉じこもって歩み寄りを拒否する人は、神を恐れていない。

5.

牧師をしていた時代に、ある長老がこう言った。

「牧師なんて楽でしょう。資格試験もないし。仕事は日曜日のメッセージだけだし」と。

またある長老はこう言った。

「私は神学校の博士号など評価しない。ちゃんとした大学が出した学位でなければ意味がない」と。

またある女性教会員がこう言った。

「先生、聖書はそういう風に読んではダメなんですよ」と。

世俗のほうが格上との間違った感覚である。

神の世界を知らないからこういう発言ができる。

神を舐めているから、牧師も舐める。

「世俗の社会で生きていけないから牧師なんてやっているんだ」と。

言っておくが、「世俗社会の厳しさが耐えられないので、牧師でもやろう」と言って牧師をやって続きますか?

冠婚葬祭だけやっていればやれなくもないが、メッセージを語る働きは召されていないとできない。

軽い気持ちで講壇に立って裁かれない人がいるだろうか。

私の場合、仕事が厳しいから世俗の仕事をやめたのではなく、「自分のおるべき場所ではない」という強烈な意識にさいなまれたのである。

神の選びの道から外れる猛烈な違和感と苦痛。

「神殿の聖具」に選ばれた人は、神殿以外では働いてはならない。

宴会で、神殿の杯を使って飲み食いしたベルシャツァル王の前に、神の指が現れ、壁に滅亡の文字を書いた。

神殿の器は、一国を破壊する。

6.

私は、毎日歩きながら「イルミナティの財産をすべてください」と何度も何度も祈った。

「悪人は神の民のために財産を積み上げる」のである。

世界は、神の民を中心に回っており、神の民が全世界をキリストの御国とし、世界の民をキリストの弟子とするために召されている。

だから、神の民には、世界を動かすのに必要なお金が与えられる。

イルミナティは、われわれのために蓄えている。

われわれが要求すれば、それは与えられる。

7.

ミレニアムは、この目的のために活動している。

その活動を妨害しないほうがいい。

自分の身を害さないために。

 

 

2018年9月27日



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