認識論で失敗したらすべてにおいて失敗したのだ


そのメールにあったのだが、「あなたの活動によってあなたは何か利益を得ましたか?」という質問は、神の国の活動については無意味である。

なぜならば、宣教活動とは利益のためにやるものではないからだ。

金儲けなら、商売をすればいい。金儲けは間違いではない。

ただし、宣教活動をしているような人間がその宣教を通じて金儲けをするならば、罪になる。

イエスは、神殿の中で商売をしている人々を追い出された。

「あなたがたはただで受けたのだから、ただで分け与えなさい」とイエスは言われた。

じゃあ、宣教師などは給料を払う必要がないのか、ということになるが、そうではない。

パウロははっきりと「教えに携わっている人が報酬を受け取るのは当然である」とある。

宣教活動の目的は、金儲けではないが、だからといって、報いが伴わないものでもない。

しかし、賛同者があまりにも少数の場合には、アルバイトせざるをえない。

今の神学校で教えるには、相当な妥協が必要だ。

なぜならば、教えそのものが相当おかしくなっているから。

私の経験だと、古い考えの組織の中で一人で指導部と対立してもいいことはない。

その指導部を悪魔に変えるから。

そういったことが見え見えの場合に、組織にとどまるよりも独立してやったほうがいい。

私は、ヴァン・ティル主義に立たない組織と一切かかわりを持たない。

ヴァン・ティルは、絶対にくぐらねばならない関所である。

これを回避することは不可能だ。

ヴァン・ティルを回避するならば、聖書信仰は実質的に崩壊する。

ヴァン・ティルに反対する人々は、「合理的なものが勝利しなければならない」と主張する。

しかし、ヴァン・ティルは、「合理性よりも聖書啓示を優先すべきだ」という。

神の言葉は、基準である。

1メートルの原器に対して、「これは本当に1メートルだろうか」と問う人間がいるだろうか。

その原器を1メートルの基準と設定したのだ。だから原器に対する疑いはありえない。

「私は神の言葉よりも知恵がある」という人は、「私は原器をも測定できる」と主張することに等しい。

世界が存在する前に、神だけが存在した。

その神の3つの御人格の間では完全なる知識が存在した。神はご自身について完全な知識を持っておられる。

この神の自己認識こそがキリスト教認識論の基本中の基本である。

ヴァン・ティルはこの神の自己認識を基準として、そこから認識を広げて行く。

聖書は、この神の自己認識を土台として人間に対して行われた啓示である。

だから、聖書は基準なのだ。

われわれの知識の土台は、絶対者なる神の自己認識なのであるから、それ以上権威をさかのぼることができない。

だから、われわれは聖書について疑問を抱くことを禁じられる。

究極の土台を疑う人は、自分が究極であると主張する人だ。

自分がたかだか80年前には存在していなかったにもかかわらず。

ヒューマニズムの基本は、「人間の自己認識」である。

「我思うゆえに我あり」だ。

ヒューマニズムとは、人間が神になる教えであり、それゆえ人間教である。

聖書を疑うキリスト教とはキリスト教ではなく、人間教である。

だから、リベラルにしろ、ディスペンセーショナリズムにしろ、バルトにしろ、全部人間教である。

彼らは「神や聖書すら試験管の中に入れて調査しなければならない」「神や聖書は証明されていない以上、私は信じられない」という。

それは、知識の基準が自分にあるからだ。

知識の体系が完全に異なっているのであるから、われわれは、彼らの学校に入って彼らと一緒にやっていくことはできない。

ヴァン・ティルという関所を通過できなかった教えはすべて切り捨てられるべきである。

ということで、現状を見るならば、世界はほとんどヒューマニズムによって汚染され、正しい教えが消えてしまったのであるから、われわれは、豊かな果実を食べることをあきらめなければならない。

「tomiさん、そんな活動やって何になるんですか?私たちはあなたを惨めな人と思っていますよ」という人がいても、答えは「しかたがないのです」と答えるしかない。

自分が普通の生活すら送れないとしても、しかたがない。

なぜならば、仲間がいないのだから。

利益を分け合う関係はほとんどまったくない。

われわれの仲間に入っても、社会的地位が向上するわけでも、金銭が入るわけでも、政治的コネクションが手に入るわけでもない。

まったく孤立する。

だから何?

そんなことどうでもいいでしょう。

神がわれわれを悲惨の中に置いて人生が終わりに近づいても何も進展がなくなって、それは神がそのように決定されたのだから仕方がない。

現状を見て判断するってのは、教えの世界においてはナンセンスなのだ。

教会成長学では、失敗の烙印を押されるだろう。

しかし、教会成長学では、12弟子はみんな失敗したのだ。

11人は殉教した。ヨハネは追放の憂き目にあった。

金持ちになったものも、社会的に地位を得たものもいなかった。

「結果がすべて」というのは、経営学では通用しても、神の国については通用しない。

ヴァン・ティルを堅持したくないなら、そこで神の国は終了だ。

認識論で失敗したらすべてにおいて失敗したのだ。

私は失敗したくないので、ヴァン・ティル主義を失うくらいなら、現世における祝福を放棄する。

 

 

2011年2月5日

 

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