聖徳太子が伝えた仏教はキリスト教だったのかもしれない


聖徳太子が日本仏教の祖ということになっているが、厩戸皇子という名前、お母さん穴穂部間人皇女が間人(=波斯人=ペルシャ人)であることなど、どうもユダヤ人クリスチャンっぽい。

ひょっとして、導入した仏教なるものは、実はキリスト教なのではないか。

景教が中国に伝播したと考えられているのが7世紀だから、聖徳太子(6世紀)よりも時代が後だが、しかし、エペソ公会議5世紀で禁止されたネストリウス派が6世紀に中国に、そして、日本に到達しなかった可能性は否定できない。

そもそも、聖書的に見れば、世界は一度伝道がいきわたった。

紀元70年までの間に弟子たちが世界宣教した。


この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。(コロサイ1・6)

「世界中で、実を結び広がり続けてい」た。

だから、1世紀に日本にも弟子たちが来て福音を伝えただろう。

とくに日本には、旧約の民がいたのであるから、なおさらだ。

物部氏は旧約の民であり、動物犠牲を捧げていた。

明らかに古代イスラエルが日本にやってきてその儀式を伝える伝統がかつてあったことがわかる。

諏訪の物部氏は、ミサクチの儀式において動物犠牲を捧げてきたが、明治以降禁止された。

だから、日本には、もともと聖書の民族がいて、その人々へ福音が1世紀に届けられた。

その後、大陸において仏教とキリスト教が融合したものが入り、聖徳太子の仏教になったのではないか。

だから、蘇我馬子とか厩戸皇子とか、キリストをほのめかす名前が「仏教側」にいるのではないか。

 

 

2013年9月12日



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