古代日本に10万人のクリスチャンがやってきた
「京都が十字架の形に?エルサレムと関係ある?馬鹿じゃないの?」
と一般の日本人は思うだろう。
知識がないからだ。
『日本書紀』には、応神14年に弓月君が百済からきて、120県の人々を率いて帰化しようとしたとある。
これが秦氏の起源なのだが、120県とはどのくらいの人数だろうか。
「県(あがた)」とは、「大化の改新以前、諸国にあった大和政権の地方組織。また、県主(あがたぬし)が統治した地域」と辞書にある。
120の地方組織といえば相当な数だ。
ある推定では10万人がやってきたという。
この秦氏は、故佐伯好郎東京文理大学教授によれば、中央アジアのバルハシ湖の南にある弓月国が、故郷であるという。
1世紀から2世紀に存在し、小国ながらキリスト教国であった。
それゆえ、10万人のクリスチャンがやってきた可能性もある。
京都を作った秦河勝が黙示録の新エルサレムについて知識がなかったとは言えないだろう。
ちなみに、秦氏の故郷である、弓月(クンユエ)国には、「ヤマトゥ」という地名がある。
アラム語でもヘブル語でも「ヤマトゥ」(「ヤ」=ヤハウェ、「ウマトゥ」=「民」)は「神の民」を示す。
http://www.ican.zaq.ne.jp/rekishi/episode17.html
おそらく大和民族の大和は、ここからきているのではないだろうか。
10万人のクリスチャンが大量にやってきて、しかも、高度な文化を持っていたら、影響を受けないわけがない。
実際、日本文化は秦氏の文化と言ってよいほど強烈な影響を受けてきた。
だから、天皇制も、京都の構造も、すべては、クリスチャンの影響を受けていると考えていいと思う。
秦氏には、日本を第2のパレスチナ、新エルサレム、神の国、理想郷にする目的があった。
だから、京都や伊勢神宮など多くの都市や神社に黙示録に関する様々な仕掛けがあってもおかしくはない。
2012年11月18日
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