祈りの兵士として立っていただきたい
(1)
クリスチャンになれば平和が得られると考えている人が多い。
しかし、心の平安は、自然に得られるものではない。
訓練によって得られる。
では、どのような訓練か。
それまで頼っていたものを捨てることによって。
神がわれわれに望んでおられるのは、被造物への依存を捨て去ることである。
それが自分であれ、両親であれ、組織であれ、教会であれ、牧師であれ、お金であれ。
聖書では、自分が頼る物を「偶像」と呼ぶ。
だから、神はわれわれがクリスチャンになると、これらの偶像を捨てるように訓練を開始される。
クリスチャンになると、それまで頼っていたものがガラガラと音を立てて崩れるようになる。
自分の立派さに依存していたある人は、したくもない借金を背負わされて、債権者から罵られる体験をした。
借金をして支払えないと、悪人にされてしまう。
それまで自分がいい人だと思っていたのだが、幻想であるとわかった。
またある人は、学校の成績が優秀でずっと自分を優れていると思っていた。しかし、自分よりもはるかに優れた学校の卒業生しか集まらないような企業に就職し、劣等感を味わうようになった。
またある人は、自分の得意な技術に頼って生きていたが、あるとき、その技術をけなす人と出会い、徹底して否定された。
このように、神は、自分が土台としていたものを破壊される。
だから、クリスチャンになれば、ある程度精神的にかなり苦しい時期を通ることになる。
プライドや自信をずたずたに引き裂かれるような体験をする。
それは、神の訓練なのだ。
私も最初わからなかった。
自分が支えにしていたものを突然失うので、非常に戸惑った。
体が恐怖で震えた。
しかし、それは、本当の自我を確立するために必要な体験であった。
古い自我を破壊されない限り、新しい本当の自我は育たない。
上智大学の神学部の教授がTVでの講義で「イスラエルが7回回っただけでエリコの城壁が崩れたというのは、嘘である。そのような考古学的な証拠はない」と言った。
この教授は、神の取り扱いを受けていない。
御言葉に対して、自我が堅く対立している。
自我が砕かれていないので、対立するのである。
神によってプライドをズタズタに切り裂かれる体験がないので、神に対して自信があるのだ。
神よりも自分のほうが知恵者だと思っているのだ。
それゆえ、この人は、神学部の教授であるにもかかわらず、契約の中に入っていない。
イエス・キリストの契約のメンバーではない。
契約のメンバーであれば、自我を破壊されているはずだから。
神がわれわれに求めておられるのは、皮一枚で、中身がすっかりくりぬかれているような人間になることである。
御霊に完全に支配され、自我とのぶつかり合いがなくなった存在。
われわれの理想はそのようなものだ。
「聖書はそう書いてあるかもしれないが、私はこう考える」みたいなことを言っている以上、まだまだヒヨコである。
本当に練られた人は、モーセのように、神の御前でただひたすらひれ伏す人である。
何か問題が起これば、神の会見の天幕の前に出る人。
神のお告げをひたすら待つ人。
(2)
われわれは、神の作品である。
私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2・10)
2013年9月30日
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