統一性と多様性を同時に尊重するキリスト教世界観においてのみ文明は発達する
聖書から「死刑廃止論は間違いだ」と説いたりすると、「神裁政治だ」とか「原理主義だ」とか批判する人々は、完全かつ徹底的に洗脳されている。
どういう洗脳かというと、「物事の最終判断者は人間である」という人間教による洗脳である。
人間教の信者は、根拠として「科学によって今日、文明はこのように発展してきたではないか」を持ち出す。
つまり、「聖書が最高権威だ?違うよ。聖書がなくても、科学だけで人類は輝かしい業績を残してきた。機械文明を見なさい。聖書とまったく関係ないところで発展してきたではないか」と。
しかし、そもそも科学は、キリスト教の世界観の前提がなければ発展しない。
その世界観の前提とは「一人の神が、世界を同じ法則によって支配している」というものである。
この「世界は同じ法則によって支配されている」ということは、多神教ではありえない。
なぜならば、多神教とは、世界の様々な領域を別々の至高者が支配していると考える教えなので、統一的な法則という発想が生まれないからだ。
キリスト教の三位一神教は、自然科学だけではなく、人文科学にも根拠を与える。
自然科学は、法則を見つけ出し、多様な現象を統一した原理で説明しようとする。
しかし、自然科学だけでは、人文科学の研究対象をカバーできない。
なぜならば、人文科学は、多様性に関する研究を旨とするからである。
Aという作家とBという作家の比較研究を自然科学の手法ではできない。
AとBの体の構造や組成を調べても、同じ人間として、同じ構造、同じ元素で構成されているので無意味である。
人文科学とは、個性に関する研究である。
イスラム教やユニテリアンのような、一位一神教では、統一だけが尊重され、多様性が無視されるので、その世界観では、人文科学には向かない。
向かないということは「長期的に発展できない」ということを意味する。
単発的に天才的な科学者が現れて、「預言者イエスとモハメッドの比較」研究に著しい業績を上げるかもしれないが、多様性に価値を置かない世界観なので、人文科学において長期的な発展は望めない。
三位一神教であるキリスト教では、統一性も多様性も同時に尊重される。
神は三者おられるので、多様性を尊重する根拠が与えられる。
神は契約によって一人であるので、統一性を尊重する根拠が与えられる。
それゆえ、「多様性も統一性も尊重する」キリスト教の世界観でのみ、両方の科学の「長期的な」発展が望める。
無神論では、多様性にも統一性にも思想的根拠を与えないので、どちらの科学においても長期的に発展できない。
なぜならば、無神論において、至高者は人間であり、支配原理はもっぱら「力が強い者が勝つ」であるから、強者によって統一性を尊重することも、多様性を尊重することも自由である。
強者が、そのわがままな理屈により、多様性を抑圧し、統一性のみを尊重することも可能であるし、逆に多様性のみを尊重し、統一性を抑圧することもありえる。
人間を超えた権威がないので、すべては「強者の恣意」によって決定される。
このような世界観では、科学の発展を期待することどころか、秩序を維持することすら難しい。
無神論の世界観では、人間の尊厳も、人権や秩序の尊重も、自然保護もなにもかも、破壊される。
それらを支持する思想的な土台がない以上、待ち受けているのは、「カオス(混沌)」だけである。
以上の議論を読んで「思想的根拠にそんな意味があるのか。そんなものなくても科学は発達するし、社会は秩序化し、人権も守られる」と考えている人は、あまりにも楽観的である。
今の文明世界が成立したのは、キリスト教のおかげである。
現代文明に対してカルヴァン主義が果たした巨大な貢献を無視する人は無知である。
2015年12月20日
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