今、死に備えよ
50歳を過ぎたころから、人生が短いと感じるようになった。
高校のクラスメートの中にも他界された方がちらほら現れている。
昨日、ショッキングな電話をもらった。
友人の友人が突然死したのだ。
友人は、ほぼ毎日その人の様子を報告していた。
「持病があるが、最近元気になった」と喜んでいた。
ちょっとすい臓が悪くて、アルコールを禁止されていたのに飲んで吐血したらしい。
私は会ったことがなかったが、毎日話しは聞いていたので、非常にショックだった。
死は、われわれのすぐそばにある。
いつ死に巻き込まれるかわからない。
不慮の事故がおきる可能性を否定できない。
だから、常日頃から亡くなった後のことを準備しなければならない。
イエス・キリストは、神が用意された唯一の犠牲である。
この犠牲を通して以外、救われる道はない。
神が絶対者であられる以上、人間を罪のあるままで受け入れることはできない。
罪人を無条件で受け入れるならば、ご自身が定められた法をご自身で破ることになる。
神は、法を破らずに人間を救う方法として、犠牲制度を制定された。
つまり、われわれの犯した罪の責任を他人に身代わりに背負わせて罰するという制度である。
この制度により、神はご自身の絶対性を崩すことなく、つまり神の法を破ることなく人を救うことができる。
だから、イエス・キリストを信じないままに死ぬことは、自分の犯した罪をそのままにして裁判所に行くようなものであるから、大変恐ろしいことである。
自分の罪をイエス・キリストを通じて処理して、無罪の身になって、死を迎えなければならない。
死後の審判は、聖書において、刈り入れによって象徴されている。
作物を育てる最後に刈り入れがあるように、人生の終わりに自分が蒔いたものを全部刈り取る時期が来る。
善の種を蒔いた場合もあれば、悪の種を蒔いた場合もある。
どちらも成長して、実を結ぶ。
善のために蒔いたものは善として、悪のために蒔いたものは悪として。
地上に命がある間は、イエス・キリストによって悪の穂を事前に間引きしてもらえるが、死後にはそのチャンスはない。
収穫の時期が始まると、畑の中にコンバインが入り、すべての改善のチャンスが奪われる。
悪の実を残した人は、それを自分が永遠の刑罰という形で払い続けることになる。
イエス・キリストによって悪の実を処理され、善の実だけを残した人は、裁かれることがない。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハネ5・24)
2011年2月11日
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