すべては恵みであって自分の功績ではない
すべてわれわれが知恵を与えられるならば、それは主の恵み以外の何者でもない。
自分で勝ち取った、学び取ったものなど一つもない。
だから、われわれは、聖書から得られる教えについて、ただ主に感謝するだけだ。
私に関しては、不思議なことの連続だった。
高校時代に、モーセ律法がなぜ教会で説かれないのか、不思議だった。
大学時代に、エーリヒ・ザウアーの『世界の救いの黎明』という本を読んで、聖書神学の構造について勉強し、大変興味を持った。
しかし、これは、ディスペンセーショナリズムの立場から書かれた本であったので、律法が敵視されていた。
ヘンリー・シーセンの『組織神学』も読んだ。
これもディスペンセーショナリズムだった。
福音派の人々が日本語でアクセスできるものは、ディスペンセーショナリズムだけである。
ほかは、リベラル。
岩波とか大手から出ているものは、ほとんどがリベラルである。
だから、聖書よりも科学を上におくような立場である。
大学時代にすっかりディスペンセーショナリズムになった。
同時にカルヴァンの『キリスト教綱要』も読んでいたので、幸いであった。
ゼミが哲学であり、教授から「今の世界は、哲学の死の時代だ。近代を乗り越える思想がない。」と教えられていた。
カントとヘーゲルが築いた近代思想の大きな体系に対していろいろな挑戦があったが、基本的に乗り越えるものがない。それによって、世界は今、行き詰っていると。
そこで、私は、「理性の自律が問題ではないのか。デカルトに始まる人間理性の独立こそが行き詰まりの原因ではないか」と思い、聖書法を勉強する必要があると思った。
神学校に入って、2年生のときにたまたま米国に行き、長老教会でラッシュドゥーニーのThe Institutes of Biblical Law(『聖書律法綱要』もしくは『聖書法の原理』)を偶然に購入。内容を知らずに買った。
卒論を書く時に読み始めて自分が求めていた「聖書法の原理」が書かれてあった。
神学校に入学したときに、先輩が再建主義の本だとは知らずにグレッグ・バーンセンのTheonomy in Christian Ethics(キリスト教倫理における神の法)という本をプレゼントしてくれた。
それをたまたま開くと、ラッシュドゥーニーの本と共通していた。
それに基づいて卒論を書いた。
「神の法の現代における有効性」のようなタイトルだった。
無事審査を通過して卒業できた。
ちょうどその頃(1987年)、聖書律法綱要の勉強会が三鷹で始まり、友人牧師と参加した。
米国の宣教師がそれ以前にラッシュドゥーニーを読み始めていたからだ。
友人牧師も、私と同時期に聖書律法綱要を読んでいたので、偶然にも3人が同じ本を読まされたという感じだった。
その勉強会で、はっきりとポスト・ミレが分かった。
それに続いて、当時、ゲイリー・ノースとデイビッド・チルトンが同じ立場からポスト・ミレの論証本を数々出版していた。
当時、ゲイリー・ノースの出版のスピードは驚異的であった。
われわれが読むよりも早いスピードで著作を発表した。
これも新しい時代への神の準備なのだろう。
その後、立場を異にしたため、教会を移った。
アルバイトで塾や予備校の講師をしながら、空いた時間で、ラッシュドゥーニーやゲイリー・ノースの本をむさぼり読んだ。
以前ゲイリー・ノースにメールをしたときに、「私の本を12冊も読んだ人は米国にもいない」といわれた。
(その際に、ネット上で、ゲイリー・ノースから自分の著書を日本語に翻訳して発表してほしいと依頼された。)
このように、神は昔から私をこの活動のために選ばれたのだと思う。
新しい時代に備えるために。
だから、すべては恵みであって、自分の功績ではない。
用いてくださったことに感謝する。
2011年4月28日
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