私たちは神の作品である


天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。
殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。
泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。
石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。
捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。
引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある。
愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。(伝道者の書3・1-8)

1.

インターネットで情報を集めることができるようになると、感性が鋭い人や知的能力の高い人は、既存の世界観の枠内で情報を発信するマスメディアには飽き足らなくなるだろう。

すでに学校を卒業し、自由度が高い大人、たとえば、自営業者や自由業者、大学生以上は、次々と新しい情報を仕入れてそれを実生活に生かすことに問題は少ないが、既存のシステムの中で生きることを強いられている組織人や主婦、高校生以下は、現実との折り合いをつけることが難しくなり、周囲との軋轢が増す。

もし私が高校生であれば、ネットから情報を仕入れているうちに、学校に通うことが馬鹿らしく思うようになったことだろう。当時は、世の中のシステムにそれほど疑問を抱いていなかったので、周囲と調和して生きることが可能であった。

しかし、ネットで様々な知識を得られるようになった今は、学校のカリキュラムに対する疑問が多いので、通うことが苦痛に思えるかもしれない。

だから、知的能力の高い高校生の諸君には、このHPに記されている内容を受け取る際には注意をしていただきたい。

学校や両親の言うことには従ってほしい。

そして、定められたカリキュラムに従って、学業を修めて、卒業してほしい。

卒業したら自由だ。もしあまりにも苦痛がひどい場合には、自学自習で卒業資格だけは取ってほしい。

2.

上記と矛盾するように思われるかもしれないが、私は、高校時代に大学受験科目以外の勉強をおろそかにしたことを後悔している。

高校のカリキュラムは、その科目の修得について十分な配慮がなされており、基礎を身につける上で効果的である。

物理でも日本史でも、教科書の内容をマスターすれば、将来自分がどのような職業に就くとしても、広い視野から問題を見て、対処できるようになる。

3.

この世で生きる上で、自分にとって嫌なことを避けて通ることはできない。

嫌なことを渋々行うと、ますます辛くなる。

どうせやらねばならないのであれば、楽しくやろう。

嫌なことを避けるのではなく、「どうやったら楽しくなるか」を考えよう。

私は数学が得意でなかったが、予備校時代に楽しく学ぶ方法を考え出した。

予習の際に、ルーズリーフ1枚の一行目に問題を書いて、その下に答えを書く。

1ページに1題以上載せない。

講義は、集中して聞き、赤ペンで間違った点や重要な点を書き込む。

簡単な規則だが、これを守ると、数学の勉強が楽しくなった。

4.

私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペ2・10)

私たちは神の作品である。

神は、私たちを人生の中で様々な学校に入れて、徐々にご自身の目標の姿に変えてくださる。

性格が合わない人や詐欺師と出会うのも一つの学校である。

その学校に入ったら卒業するまでOKはでない。

逃げても逃げても同じ課題が与えられる。

学校に入ることを避けられないならば、課題をいやいやこなすのではなく、できるだけ楽しくなるようにする。

新しい学校に無事進学しても、そこでまた課題が与えられる。

自分の上に立てられた人は、神が備えた権威であるから、逆らうと自分にとって利益がない。

学校を卒業するころになると「そろそろだな」と感じる。

しかし、試練は思った以上に長く続くものだ。

神は定められた時が来るまで、私たちを鍛えられる。

 

 

2018年5月12日



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