聖句を取捨選択する個人や教団は偶像礼拝の罪を犯している
偶像とは、自分の願望の具体化。だから偶像礼拝とは、結局「自分礼拝」にほかならない。
なぜ神の像の姿が個人や民族によって異なるのか。その個人や民族が「望ましい」と思う姿が多様だから。
崇拝対象が気に入らなければ、崇拝者は思いのままにその像に手を加える。
偶像礼拝者は、自分のわがままを通してくれる神以外は拝まない。
その点で、神道に偶像がないのは驚異的である。
キリスト教ですら、キリスト像を作り上げ、祭壇にまつっている団体がある。
もし神が本当に神であるならば、人間の手を加える余地がない不動の存在であるはず。
聖書は一字一句変えてはならない。
自分の希望に合わせて聖句を取捨選択する個人や教団は、偶像礼拝の罪を犯している。
2018年9月16日
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