1.
日本人の先祖が漢字の成立にかかわったことを荒唐無稽と批判した人がいたので次に回答する。
秦の始皇帝は漢字を体系化した。
"漢字の移り変わりは、王朝の変遷と関係する。たとえば、甲骨(殷) → 金文(周) → 篆書(秦) → 隷書(漢)というように。とくに、秦の始皇帝は紀元前221年に中国を統一すると、それまでいろいろな形で書かれていた漢字を整理・統合し、新しい書体、篆書(てんしょ)を制定した。”
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-3019.html
始皇帝も徐福も、姓は“嬴”で同族。漢族ではない。徐福は、方士であった。方士とは、中国古代の方術を行なった人であり、方術とは、卜筮、医術、錬金術などをさす。それゆえ、ある意味で知識人であり、漢字の知識があったと当然考えられる。
徐福は、司馬遷の史記の「淮南衝山列伝」と「秦始皇帝本紀」に名前が出てくるが、「秦の始皇帝に、『東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある』と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、『平原広沢(広い平野と湿地)』を得て、王となり戻らなかった」と淮南衝山列伝に記されている。
これについて次の説明がある。
”東方の三神山とは、蓬莱・方丈・瀛州のことである。蓬莱山についてはのち日本でも広く知られ、『竹取物語』でも「東の海に蓬莱という山あるなり」と記している。「方丈」とは神仙が住む東方絶海の中央にあるとされる島で、「方壷(ほうこ)」とも呼ばれる[3]。瀛州はのちに日本を指す名前となった[3]。”(Wikipedia―徐福)
富士山の別名は、蓬莱山である。中国から見て、「東方絶海の中央にあるとされる島」で、日本の別名が「瀛州」であるとなれば当然徐福が渡った東の島とは日本であると考えられる。
日本には数多くの徐福伝説がある。
”青森県から鹿児島県に至るまで、日本各地に徐福に関する伝承が残されている。徐福ゆかりの地として、佐賀県佐賀市、三重県熊野市波田須町、和歌山県新宮市、鹿児島県出水市、いちき串木野市、山梨県富士吉田市、東京都八丈島、宮崎県延岡市などが有名である[7]。”(同上)
2.
徐福が物部氏の先祖である証拠について:
物部氏である海部氏の「海部氏勘注系図」(国宝)には、天照国照彦火明櫛玉饒速日命(ニギハヤヒ)の名が見られる。
ニギハヤヒ命は「皇祖覇王」であり、物部氏の祖。
物部氏の祖を祀る大和の石上神宮には、布都(ふつ)、布都斯(ふつし)、布留(ふる)という名で、スサノオの父、スサノオ、スサノオの子(ニギハヤヒ)というスサノオ3代が、祀られている。
徐福の中国大陸在住時の名は、徐市(じょふつ)であり、史記に載る正式名は市(ふつ)と呼ばれていた。
石神神宮は、「ふつの神」=「徐市」とその子孫を祀っていたことになる。
即ち、スサノオ命は徐福の子(ふつし)であり、ニギハヤヒ命は徐福の孫(ふるの大明神)であった。
物部守屋が、蘇我氏と戦ったとき、「物部府都(ふつ)大神矢」と誓って弓を引いたという記録があるという。
http://6327.teacup.com/maeda/bbs/543
このほかにも、徐福と物部氏の関係を示すものは非常に多い。
漢字を体系化した秦の始皇帝の部下であり、知識人であった徐福が物部氏の先祖になった以上、日本人の先祖が漢字の成立にかかわっていたという説は荒唐無稽ではない。