最高の人生を送りたいならば、献身することである。
献身といっても、牧師や伝道者になるということではない。
自分の仕事において家庭において身をささげるということである。
どの仕事も神の召命であり、献身の手段である。
「神様、私をささげますので、御心のままに用いてください」と祈るのである。
これこそが、本当の礼拝である。
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ12・1)
供え物は、祭壇の上に載せられて煙とされた。
だから、われわれは、自分を祭壇の上に載せて、火をつけて燃やし尽くし、煙とするのである。
つまり、自分の存在に対する自分の所有権を拒否することである。
毎週日曜日何回礼拝に行っても、これを行っていなければ、それは単なる儀式をこなすことにすぎない。
礼拝とは、自分の所有権を神に明け渡して、一切主張しないことである。
「これからの人生、どのようになっても文句は言いません。ご自由にお使いください」と言わなければそれは、礼拝ではない。
自分の体は自分のものではない。
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。(1コリント6・19)
自分の所有権を否定することが、実は、最高の生き方である。
神にささげることを何かもったいないことと考えるならば、それは理解が足りない。
全知全能の神が、自分の人生を完全コントロールしてくださるのである。
どうして無駄なことがあるだろうか。
われわれが浅知恵で、勝手に判断して進んでいくほうが圧倒的に無駄が多い。
私は、自分が経験したことが、全部今生きていると感じている。
神に委ねるならば、無駄な経験をしなくてすむ。
神の敵として人生を使う人は、全部無駄にする。
自分のやりたいことをやって全部自分を破壊する結果になる。
いいと思っていたことが、逆に作用する。
わたしを見失う者は自分自身をそこない、わたしを憎む者はみな、死を愛する。(箴言8・36)
逆に、神を愛し、神を求めるならば、命を得る。
献身の度合いが高ければ高いほど、神が最高の人生に導いてくださる。
戦後のマッカーサー・フリーメイソンの教育で、「国とか誰かのために生きるのではなく、自分の幸福を実現するために生きるべきだ」と教えられた。
人生は自分の幸福向きにはできていない。
ディズニーランドのようなところではない。
お金を稼いで好きなものを買って、好きなものを着て、好きな車に乗ったからといって、それを手に入れたら「これが何?」ということになる。
快楽を目的としても虚無しか残らない。
なぜならば、神は世界や人生をそういうものとしてはおつくりになっていないから。
人間の最高欲求とは、宗教である。
宗教的信念に打ち込むことこそ、最高の快楽である。
私がなぜパチンコをしないのか。
やってもむなしいから。
私にとって最高の快楽とは、書物を読んで、新しい理解を得られることである。
または、非常に優れた映画を見た後である。
1987年ころ、あまり映画を見ていなかった私が『プラトーン』を見て大きな衝撃を受けた。
自分の体験と重なる部分があったから。
最近で衝撃を受けた映画は、『バンド・オブ・ブラザーズ』である。
ノルマンディ上陸作戦を描いたドキュメンタリー的な映画。
(ちなみに、アメリカ人は映画に関しては、技術的・演技的にレベルが違うと思った。)
それから、快楽なのは、自分が疑問に思っていた謎が解けたときである。
勉強ができる生徒は、絶対にいやいややっていない。
彼らは勉強が楽しいことを知っている。
普通に遊ぶことよりも楽しいことを知っている。
自分が向上していることが心地よいのである。
私にとって数学の問題はゲームだった。
受験時代、数学ばかりやっていたが、ノート1枚に解答を書くのが楽しかった。
英語学習は、問題集をやって、間違ったところに鉛筆で丸をつけ、何度もやっているうちにその丸が消えていくのが楽しみだった。
パチンコは、何かのチャンスが巡ってきて、画面が点滅し、球が出てくるのが、快楽らしい。
脳内になにか物質が出るとか聞いたことがある。
そういう人間の快楽現象を巧みに利用しているのだろう。
たまに気晴らし程度ならわかるが、毎日とかまったく理解できない。
自分の知識や技術がそれで向上するわけでもない。
だから、私はパチンコに魅力を感じない。
この世界は、個人の幸福を追求するにはあまりにも空しく作られている。
神の創造秩序とは、だれかのために生きる、何かの理想のために生きる、そういう宗教的な動機を得た人間だけが幸せになれるようなシステムなのだ。
利己的な人間には、虚しさと苦々しい結末しか残らないようにできている。
最高の人生を送りたいならば、神の国のために自分をささげることである。
自分が預言者や伝道者、牧師になる必要はない。
彼らを受け入れる者は、同じ報いを受ける。
預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。(マタイ10・41)