「それでも信じます」と言おう
1.
「聖書が教えるとおりに、神は本当に〜なのか」という疑問が起きる人は、すでに悪霊にやられている。
生きるための土台である信仰が破壊されている。
「それでも、聖書が教えるとおりに、神は〜であると信じます」と言わないと、悪魔は「信仰の欠落部」を見つけて、そこから心の中に入る。
聖書は「最終宣告」である。
たとえば、相撲で、行司の「差し違い」があった場合、審判員が土俵に登って4人で審議する。
彼らの結論が場内アナウンスされ「行司に間違いがあった。勝利は○○のほうにある」と宣言する。
これが「最終結論」であり「最終宣告」である。それ以上、誰が何を言おうと、勝敗が覆ることはない。
日本の裁判制度では、最高裁の判決が「最終結論」。ここで死刑が決定されると、死刑は「必ず」実行される。
この宇宙は神が創造されたので、最終的に結論を出されるのは、神ご自身である。
それ以上の結論は誰も出せない。神が一声「○○だ」と言われたら、誰もそれ以上、何も言えない。
ですから、聖書の御言葉は最終結論として読む以外にはなく、「聖書にはこうあるが、本当はどうなのか」という疑問は無意味である。
聖書のとおりに物事がうまく行かない場合は「聖書のとおりになっていませんが、これは一時的なことであり、神は必ず○○してくださると信じます」と「必ず」言わなければならない。
ここで疑いが入ると、実質的に自分の存在が依存している土台が崩壊しているので、悪魔の餌食になる。
悪魔は次第に好き勝手やりだす。
精神をやられた頃の自分は、たえず疑っていた。
「聖書はこうあるが、現実はそうじゃない」と。
信仰がないので、蹴り回された。
いつも不安と恐怖の中にあり、人を恐れ、言いたいことも言えなかった。
今でも不安に襲われる直前の状況になることがあるが、すぐに「しかし、聖書にはこう書かれている。神様この約束を信じます」と言う。
すると、安定する。だから、被造物に頼る必要はない。必要なものは神が与えてくださる。
2.
こちらが信仰のことを言って口汚く罵るような人々は「豚」であり、そういう人々に「真珠」を投げてはならないとイエスは言われた。
「それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂く 」からです。(マタイ7・6)
2018年9月18日
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