1.
歴史が終わって到来する永遠の世界を何か「霊的な世界」と考えるのは間違いである。
なぜならば、クリスチャンもノンクリスチャンもどちらも復活体を与えられるからだ。
クリスチャンは、死後すぐに「御霊に属するからだ」を与えられる。
血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。(1コリント15・44)
この「御霊に属するからだ」を最初に受けたのがイエス・キリストである。
イエス・キリストは、三日目によみがえられ、この体を持たれた。
その体は、壁をすり抜けるか、もしくは瞬間移動することができたが、肉や骨があり、見て、触ることができ、食べ物を食べることができた。
十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。
八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。
それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20・24-27)
わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」
{イエスはこう言われて、その手と足を彼らにお示しになった。}
それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。
それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、
イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。(ルカ24・39-43)
聖書は、はっきりと、復活体が物質であり、地上の物質世界とかかわりがあることを証言している。
「血肉のからだ」ではないが「肉や骨があるからだ」である。
キリストはわれわれの「初穂」であるから、われわれも、永遠の生活において、この「肉や骨があるからだ」で暮らす。
人間は体を持たねばならない。
なぜならば、被造物の支配者として作られたからだ。
アダムは、被造物を統治するために体を与えられた。
だから、永遠の世界においても、体を持たねばならない。
安息日は、永遠の世界を象徴している。
もはやサタンとの闘いはない。
永遠に平和に暮らす。
ノンクリスチャンも千年王国が終わり、永遠の世界が到来する際に復活し、「火の池」に投げ込まれる。
そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。…
海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(黙示録20・5、13-15)
クリスチャンは、世界の相続者として永遠に過ごし、ノンクリスチャンは、世界の非相続者として「体を持ちながら」永遠に過ごす。
2.
われわれの一生は、永遠の生活の「ごく初期の出来事」である。
80年生きても、それは、ほんの始まりである。
圧倒的に長い時間をどこで、そして、誰として過ごすのか。
支配者、相続者として過ごすのか。
それとも、非支配者、非相続者として過ごすのか。
地上での人生をサタンのために働く人間は、究極の大バカ者である。
サタンとともに、永遠を火の池の中で苦しみもだえながら暮らすことを選択したからだ。
御国も、火の池も、物質世界である。
今の物質世界とは異なるが、しかし、目に見え、触ることができる世界である。
すでに述べたように、イエスは肉と骨を持ち、焼き魚を食べられた。
食べるということは、消化器官も、筋肉もあるだろう。
骨があるのだから、重力が存在するのだろう。
「御霊に属する」のであるから、それは御霊の住まい、つまり、神殿なのだろう。
つまり、永遠に生きる体は、われわれが今持っているからだの延長なのだ。
われわれが今、暮らしているように、永遠の世界は、きわめてリアルで、きわめて物質的である。
人間として生まれた以上、われわれは、物質的に非存在となることはできない。
永遠に物質世界とかかわりを持たねばならない。
何か夢のような幻想的世界に入るわけではない。
祝福された状態で永遠を過ごすのか、呪われた状態で永遠を過ごすのか。
地上での命が与えられている間に選択しなければならない。