信条主義と司法主義の両輪がそろってはじめて教会は正しく機能する
せっかく再建主義を理解し、自分の教会をその教えに基づいて再建しようとしても、もし「信条主義」と「司法主義」の点でしっかりと行わないならば、もとの木阿弥である。
信条主義とは、自らの信仰の内容を信条としてまとめあげ、入会者に条件として「宣誓」をさせることを意味する。
バプテスマを受ける人、転会を申し出る人、とくに迎え入れる教職者や長老に対して、「私は〇〇教会の信仰信条を受け入れ、それに違反する場合には戒規もしくは除名処分を受けても異論はありません。」との宣誓を強制しない限り、教会を敵から防衛することは不可能である。
あなたの教会が、信徒たちによる尊い献金によって会堂を建て、立派な学校を建てても、敵(モダニストやディスペンセーショナリスト、フェデラル・ヴィジョニスト、フルプレテリストたち)が侵入し、教会の長老会を乗っ取ったら、すべてを失うことになる。
教えで失敗したらすべてダメである。
教えが間違ったら、その教会は死んだのである。
牧師がフェデラル・ヴィジョンになった教会は、すでに死んでいる。
だから、教えにおいてきちんと信条を制定し、会員となる条件を設定すべきである。
信仰信条を定めるだけでは不完全である。
司法制度を確立すべきである。
つまり、信条に違反する異端をまき散らす牧師や信徒がいたら、追放しなければならない。
刑罰を適用しない法律制度は、無法の制度である。
刑罰が適用されない法は、法ではない。
スピード違反をしても取り締まらない警察がいる国は、スピードに関してアナーキーである。
「クリスチャンは人を裁いてはならないのではないか」と問うかもしれない。
イエスは「(裁くならば、)正しい裁きをしなさい」(ヨハネ7・24)と言われた。
裁きそのものは聖書的である。
いや、人間は地上を裁く王として創造された。
われわれは、聖書に従って正しく裁き、聖書的な秩序を地上において確立し、広めなければならない。
そのため、異端を信じる牧師や信徒に除名という刑罰を科すことに躊躇する教会は、神の基本命令「地を従えよ」に反逆している。
信条主義と司法主義の両輪がそろってはじめて教会は正しく機能する。
2016年8月21日
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