ハデスと火の池の違い3
同じように、すべての非贖罪宗教、つまり、行為義認の宗教は、「キリストの犠牲など不要」とするので、冒涜である。
「人は行いによって救われる」とする宗教は、自分の犯した罪が永遠の刑罰に値するものではないとするので神を愚弄するものである。
この例で言えば、友人が「そんな100万円支払ってくれなくてもよかったのに。働いてすぐに返せたのに。余計なことをしてくれたね」と言うのに等しい。
だから、行為義認の宗教を信じるすべての人は、神に向かって「余計なことをしやがって」と言っているのである。
マザーテレサは、行為義認を信じていた。
だから、マザーテレサを受け入れることは、神に向かって「キリストの犠牲なんて無駄」と言っているのと等しい。
外面しか見ないでその内実を知ろうとせずにマザーテレサを受け入れる牧師が多いが、信仰を捨てている。
ある兄弟が牧師にマザーテレサが行為義認を信じていることを伝え、ローマ・カトリックが反政府活動を勧めていることを伝えても、拒絶した。
こういう頑固は、末期症状である。裁きしか残っていない。
正しい教えを拒絶することは、自分を永遠の火の中に放り込み、その信徒を道連れにするに等しい。
自分の牧師がマザーテレサを肯定するなら、あなたは、その教会から出るべきだ。
2014年4月5日
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