熾烈な戦いを避けるならば、熾烈な永遠の運命が待っている


敵を倒す一番有効な方法は、相手に闘う気持ちを与えず、武器を持たせないことである。

憲法9条なるものの目的はここにある。

中国にしてみれば、日本人が覚醒することが恐ろしい。

日本人が闘う気持ちになれば、侵略ができなくなる。

中国がしきりに海外のメジャーな新聞社などを獲得しているのは、「憲法改正しようとする安倍はナチスだ」という宣伝をするためだ。

われわれにとって、ボケることは、一番恐ろしい。

この地上を何か天国であるかのように誤解することは本当に恐ろしい。

2007年に川崎市で、在日韓国人が公務員になった。

それを皮切りに全国の自治体に外国人公務員が誕生した。

外国人を優遇する制度が生まれている。

このようにして、地方から徐々に日本人への逆差別が進行している。

しかし、今、日本では投票率が低下しつつある。

人々は政治に期待しないという。

期待できないような政治家しかいなったのは、われわれが政治家を監視しなかったからだ。

東京都民は、韓国のために利益誘導する舛添のような人間を選んだ。

選挙前からあれだけ危険視する情報がネットに溢れていたにもかかわらず。

無知なのである。

知ろうとしないのである。

真実を知って戦わないのだ。

だから、徐々に日本は敵国の支配下におかれている。

スポルジョンは、19世紀のイギリスの教会に警告を発していた。

ポスト・ミレを捨てて、プレ・ミレを採用することの恐ろしさを警告していた。

そのとおり、イギリスは再臨信仰に染まり、地上での戦いを放棄し、牙を抜かれたクリスチャンだらけになった。

そこにイルミナティが入り込んで、イギリスを乗っ取った。

http://www.millnm.net/qanda/spurpos.htm

戦いを放棄しても、敵は攻撃をやめない。

だから、戦いを放棄することは死を意味する。

サタンは、クリスチャンを内向きにすることに成功した。

われわれだけが外に向いている。

しかし、われわれに対する攻撃も巧妙である。

それは、われわれをボケさせることである。

ボケさせるにはどうしたらよいか。

世俗的な心配事で頭をいっぱいにすればよい。

欲ボケにすればいい。

霊的な戦いなどどうでもいいと思わせる。

これまでの人生の中で私に対する攻撃は熾烈を極めた。

普通の福音派にとどまっていれば、これだけ攻撃されなかっただろう。

私を支援する方々も、この運動にかかわることがどういうことか理解されただろう。

私たちを潰すことは、神の国を潰すことを意味する。

なぜならば、99.999%がすでに潰されているから。

私は、いろんな大御所の牧師たち、クリスチャン、ノンクリスチャンが逆上したり、乱心するのを見てきた。

同志だと思っていた人々が、敵に寝返ったのを見てきた。

ともに闘っていた人としばらくぶりで会うと、完全に敵側に回っているのを見てきた。

かつてともに本を出版しようとか、ポスト・ミレを広めようと言っていた人の家を何年かぶりに訪問したら、その後、息子から罵倒メールの嵐を受けたこともある。

「おまえの考えをうちに持ち込むな。そのおかげで家はめちゃくちゃにされた」と。

再建主義がめちゃくちゃにしたのではなく、それを奥さんが拒絶したからなのだが。

真理が分裂をもたらす場合がある。

そして真理を犠牲にして人間関係を優先するならば、逆にそれが呪いである。


ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。
しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。
わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
さらに、家族の者がその人の敵となります。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。(マタイ10・32-39)

真理を犠牲にして、「父や母を愛する者」「息子や娘を愛する者」は「わたしにふさわしい者では」ない。

そのような人は、「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者」である。

そのような人は、「自分のいのちを自分のものとした者」であり、それゆえに「それを失」う。

人間関係を優先するような人は、永遠のいのちを失う。

逆に、十字架を背負っていく者は、永遠のいのちを受ける。

真理を知ってそれを拒むならば、一切を失う。

分裂を回避することはできない。

なぜならば、真理よりも人間関係を重視する人々はたくさんいるからだ。

私は、そのような生き方をするくらいなら死んだほうがましだと思う。

このように、神の国のための闘いは、遊びでもないし、趣味でもない。

命がけである。

命がけでない人は、命を失う。

死後永遠の地獄に行きたいならば、そちらを選択してほしい。

熾烈な戦いを避けるならば、熾烈な永遠の運命が待っている。

 

 

2015年3月15日



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