神社で礼拝してよいのか


2010年に伊雑宮に行った。

神々しく、清潔感のある質素な神社だ。

同行の地元の人たちは参拝していたが、私はしなかった。

なぜかというと、そこに祭られているものが、必ずしも聖書の神とは限らないからだ。

八咫烏によると、イエスの十字架の罪状書きが収められている。

彼らはこれを「首」と呼ぶ。

この首を伊勢神宮の内宮にある十字架と合体させる必要があるらしい。

三種の神器も、時が来ていないので、それぞれ他の神社に祭られているが、最後には集められる。

だから伊雑宮はおそらくイエスの宮なのだろう。

しかし、確証はない。

しかも、2000年の長い間に神道には呪術的な要素が加わっている。

だから、われわれが礼拝対象となるようなものではない。

対象をしっかりと規定できないようなものを拝むことは、偶像礼拝であり、第一の罪である。

その罪と同時にわれわれの心に隙間ができてそこから悪霊の侵入を許すことになる。

悪霊のよる人格侵略が進めば廃人になるか、犯罪を犯すか、悲惨な未来が待っている。

しかも、永遠の命を失うことは確実である。

だから、私は、神社に行っても絶対に礼拝しない。

歴史と文化を学ぶために行くのみである。

クリスチャンは、ここらへんはきちっと区別をすべきである。

 

 

2012年5月23日

 

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