勝利の人生


1.

イエスを信じる人々は、勝利者である。

イエスを信じたときから、勝利の人生が始まった。

それは、一挙手一投足すべてが勝利につながっている。

神を愛するならば、すべてが利益となって自分に返ってくる。

なぜならば、歴史は「神の勝利」という頂点に向かって上っているからである。

歴史が偶然に推移し、われわれの人生が偶然の出来事によって翻弄されているというような考えを捨てよう。

それならば、生まれてきた意味がわからなくなってしまう。

すべては必然であり、永遠の昔に神がことごとく決定された。

全部、勝利に向けて設定されている。

クリスチャンは、神によって勝利のために選ばれた人々である。

反キリストの人々は、神によって敗北のために選ばれた人々である。

気の毒だが、そういう運命なのである。

悔い改めてこちら側に来れば、勝利に向かうことができるが、反キリストを貫けば、人生は敗北に終わり、永遠の世界において刑罰を受け続ける。

2.

クリスチャンでも、聖書に忠実かどうかで受ける報いが変わる。

神の御心は聖書に記されているので、聖書をいかに「正確に」読むかは一生を左右する鍵である。

「自分にとってイエス様とはこういう人だ。こういう人であってほしい」というような願望が先に立つような理解では偶像礼拝になってしまう。

「金髪碧眼」とか「長髪」など、西洋人が思い描いてきたイエス像は、まったくの想像の産物である。

イエスは、律法を完全に守られたのである。

ではどうして長髪なのか。

律法では「男子は髪を短く刈らねばならない」とある。

イエスは、ユダヤ人だったので金髪碧眼であるはずがない。

規定通りにびんの毛(もみあげの上の毛)を伸ばしていたはずである。

イエスの弟子たちも、びんの毛を伸ばしていただろう。

私はそれゆえに、画像や像を用いた聖書教育に反対である。

自分の間違ったイメージを伝えてしまうからである。

神の啓示は言葉による。聖書をどれだけ正確に伝えるか、にこだわるならば、画像や像よりも言葉による教育がベターであろう。

3.

聖書に忠実であればあるほど、勝利の程度が高い。

妥協すれば、それなりの成果しか得られない。

われわれの基準は、三位一体の神ご自身以外にはない。

欧米の宣教団体が紙芝居や映画を使って伝えたイエスは、「彼らのイエス」であって「聖書のイエス」ではない。

三位一体の神の間で共有しておられる真理こそが、われわれが持つべき知識である。


神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」

神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」(創世記1・26、3・22)

ここに「神の間での会話」が記されている。

三位の間で共有されている知識、混じりけのない純粋な知識、これこそが人間にとって「ザ・基準」である。

三位は、人間に真理を伝えようと決意された。

その真理が聖書に記されている。

聖書は神の霊感により、誤りなく導かれて記されたものである。

それゆえ、聖書こそが「ザ・基準」なのである。

われわれが、真に「無駄のない」「有意義な」「実りの多い」人生を送ろうと思うならば、この「ザ・基準」にできるだけ近づく必要がある。

試験勉強をしたことがある人ならわかるだろうが、得点を上げるには、「題意」をくみ取らねばならない。

数学において高得点を期待するならば「この問題で、どの公式を使うことが求められているのだろうか」と自問しなければならない。

間違った公式を使って回答しても正答が得られる可能性は低い。

試験で優秀な人とは「出題者の意図を読み取る」ことができる人である。

同じように、クリスチャンとして優秀な人とは「聖書を記された神の意図を読み取る」ことができる人である。

出題者である神と、気脈が通じている人こそが、人生の真の勝者である。

ある宗教では、頭を洗うことが禁止されている。頭を洗う場合は、海水を用いなければならないと。

これは聖書の神が期待しておられることではない。

だから、懸命に海水で髪を洗っても、何も得られない。

喜ぶのはその宗教を支配している悪霊だけである。

こういう的外れな生き方をするともったいないのである。

4.

神がわれわれに期待しておられるのは、「御名があがめられ」「御国が来」「御心が天で行われるように地上でも行われること」である。

このために人生を使う人は、もっとも賢い人である。

これに集中できればできるほど、勝利に近づく。

集中するといっても、日常生活を犠牲にして伝道しろ、というわけではない。

万事を御名をあがめるために行えば、それが勝利なのである。

日常のささいな事柄、仕事、家事、育児、車の運転、・・・

なんでも御名のために行えば、それが勝利に直結する。

すべてを「勝利の軌道」に乗せてしまえばいいのである。

「私は献身者ではないから、神のために働けません」という人がいる。

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。(1コリント10・31)

食べること、飲むこと、すべてのことが、神の栄光のために行われれば、神のために働いていることになる。

こういった小さな積み重ねによって、御国は進展し、神の御支配の領域が地上において広がり、サタンの活動は小さくなっていく。

5.

どれだけ神の勝利に貢献したかによって、永遠の世界における報いが変わる。

さて、最初の者が現われて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。』
主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』
二番目の者が来て言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、五ミナをもうけました。』
主人はこの者にも言った。『あなたも五つの町を治めなさい。』(ルカ19・16-19)

神はどのような小さな善行も忘れ給わない。

わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」(マタイ10・42)

 

 

2017年11月15日



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