安息日を今日でも宗教的義務として順守すべきと説く人へ2


旧約時代、安息日は金曜日の夜から土曜日の朝にかけてであった。

現代において「だから日曜日に礼拝するのは違法だ。土曜日にしなければならない」という教えがあるが、徹底すべきである。

まず旧約時代において、曜日と日付は固定されていた。

1月14日は必ず金曜日であった。

しかも、1月1日は祭司が月の形を見て決めていた。

毎月は新月から始まった。

そのような背景を無視して今の暦制度における土曜日に礼拝を持つから律法を守っていることにはならないのである。

本当に旧約律法のとおりに行いたいのであれば、暦制度を完全に太陰暦に変えるべきである。

そして、新月から一か月を開始すべきである。

さらに言えば、暦制度と祭りは密接に関係している。

そして、祭りは当時の農業事情と密接に関係している。

となれば、われわれは、サラリーマンをしていても、家庭菜園を作って、収穫祭を祝わねばならないということになるのか、という話になる。

旧約聖書の安息日の制度は、当時のイスラエルの農業社会を背景として定められたものであり、「民族的」「局所的」なのである。

ユダ族であったイエス・キリストがレビ族しかなれなかった大祭司になったということ、さらに、超民族的なメルキゼデクの位の大祭司となられたということ、そして、パウロが「大祭司の変化に伴って律法も変化しなければならない」といったからには、律法をこのように「民族的」「局所的」なものとして守る時代は過ぎ去ったと考えなければならない。

イエス・キリストが大祭司になられたということに含まれる重要な点は次の2つである。


(1)大祭司をはじめとする宗教制度は不滅である。

(2)この宗教制度は超民族的に守られなければならない。

(1)

新約時代になったから、祭司制度や神殿、犠牲制度、その他は、完全に廃棄された、無効になった、と考えることはできない。

なぜならば、「律法の一点一画も地に落ちることはない」からである。

大祭司も祭司も、神殿も、犠牲も、今日も存在する。

それは、イエス・キリストである。

イエス・キリストが永遠の大祭司、祭司、神殿、犠牲になられた。

そして、イエス・キリストにあって、われわれも大祭司であり、祭司であり、神殿であり、犠牲である。

つまり、旧約律法の諸制度は廃棄されたのではなく、確立され、恒久化されたのである。

(2)

恒久化されたのであるから、どの民族であっても、クリスチャンは、律法の本質を読み取り、それをその民族に適した形において適用しなければならない。

クリスチャンは、キリストにあって、大祭司として、人々のためにとりなし、天の祝福を彼らに与えるべきである。

預言者として、真理の光を人々に伝え、世を照らすべきである。

安息日に示された救いの恵みを社会に適用し、7日に1日を休日とし、7年に1年を安息の年として休暇を与えるべきである。

クリスチャンの間では、7年目に負債を免除すべきであり、クリスチャンの中で借金奴隷にならないように救済措置を講じるべきである。

安息日や安息年の律法の本質とは、クリスチャンは世界の支配者として影響力を行使する立場にいるべきであって、疲労や借金によって奴隷や不健康に堕ちるべきではないという思想である。

クリスチャンは互いの間で助け合い、互いに「王・祭司・預言者の地位から落ちないように」手を差し伸べ合うべきである。

クリスチャンが弱くなれば、世の人々が支配勢力となり、神の国は衰退する。

目的は、神の御心が地上において成就するために、クリスチャンが神の代理支配者としての地位を確立することにある。

だから、クリスチャンで金欠で困っている人、借金地獄に陥っている人などを救済するために7年に1度徳政令を発するべきである。

このようにして律法の精神を各民族、各時代に適した形で適用すべきである。

 

 

2017年4月19日



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