旧約時代と新約時代の物事の判断の方法はまったく違う


このHPで何度も言っていることだが、アシュケナジー・ユダヤ人もユダヤ人である。

一般に、アシュケナジーは、白人であり、本当のユダヤ人はセム系であるから違うと言われている。

しかし、古代からシルクロード沿いにユダヤ人が貿易を行っており、ユダヤ人の伝統である相撲も、シルクロード沿いの民族に伝わっている。

また、遊牧民族は互いに混血するので、アッシリアに捕囚されていたユダヤ人とスキタイ人の間に混血が行われ、さらに、モンゴル族の夫余族との間にも行われたことは、様々なスキタイの遺物がシルクロード沿いの地域に残っていることから明らかである。

だから、カスピ海の一体にあったハザール帝国の末裔であるアシュケナジーの人々にユダヤ人の血が混じっていた可能性は高い。

いやむしろ、ハザールがユダヤ教を国教として選んだのは、ユダヤ人の血縁的影響であろう。

だから、偽ユダヤ人と真ユダヤ人で分けるのは間違い。

しかも、イエスを十字架につけたのは、スファラディのユダヤ人であった。

聖書的に言えば、民族によって善悪を分ける考え方は旧約時代に終了した。

旧約時代において、ユダヤ人と異邦人の区別は、「救われているか、救われていないか」の区別でもあった。

しかし、新約時代においては、ユダヤ人だから救われているとか、異邦人だから滅びるという区別はなく、また、その逆もない。

民族は関係ない。

区別の基準は、契約に属するか否かである。

つまり、クリスチャンかノンクリスチャンか。

これが新約時代においてわれわれが用いるべきものさしである。

新約時代は、超民族的経綸である。

なぜならば、祭司制度が変化したから。

旧約時代には、祭司はレビ族から選ばれた。

しかし、新約時代には、クリスチャンが祭司であると言われている。

つまり、民族的な区別はなくなった。


祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりません(ヘブル7・12)

祭司職が民族に限定されないのであれば、律法も民族に限定されない。

つまり、律法は超民族的に適用すべきものに変わった。

だから、ユダヤの祭りや食事制限などは、超民族的に解釈すべきだ。

たとえば、食事において食べてよいものと悪いものは、「聖俗の区別をつけろ」との戒めである。

新約時代において「ものそのもの」に聖俗はない。

それを用いる「心」が聖俗を作る。

神のために行わないことはすべて汚れている。

たとえ旧約聖書の食事規定に従っていても、神を愛する目的で行わないならば、その食べ物は汚れている。

きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。(テトス1・15)

信仰があるかどうか。

これがすべてである。

だから、新約時代において、真のユダヤ人か偽ユダヤ人かはどうでもいいことである。

そういう区別は旧約時代に撤廃された。

イスラム教やヒンズー教のように、今でも食事規定がある宗教のことを、聖書は、「惑わす霊と悪霊の教え」と述べている。

しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。神のことばと祈りとによって、聖められるからです。(1テモテ4・2-5)

「神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。」

タバコだって酒だって、神が造られたものである。

感謝して受ければ、捨てるべき物は何一つない。

こういうものを禁止する今の福音派のキリスト教は実はキリスト教ではない。

「惑わす霊と悪霊の教え」である。

だからといって、健康に悪いと知りながら、もしくは、自分を誘惑するものであると知りながら食することは、罪である。

タバコや酒それ自体悪いものではないが、食する動機が神を無視しているならば、それは汚れる。

新約時代の判断基準がこれでお分かりだろうか。

旧約時代と新約時代の物事の判断の方法はまったく変わっているので注意が必要だ。

 

 

2013年4月22日



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