正しく善悪を判断するには
犯罪を自然法的、非人格的に考えると、おかしくなる。
たとえば、カナンの地を偵察に来たイスラエルのスパイをかくまって、逃がした遊女ラハブは、カナン人に対して「誰も来なかった」と嘘をついた。
自然法的、非人格的に見れば、「嘘は罪」である。
しかし、聖書は、ラハブを信仰の人として称賛している。
善悪とは、神が人間に対して定めた掟である。
「神とは無関係にもともと自然にあったもの」ではない。
だから、神の目から見て「良い」ならば「善」であり、「悪い」ならば「悪」である。
神がカナンの地をイスラエルに占領させる決定をくだされたので、「イスラエルによるスパイ活動は善である」。
そして、それを助けたラハブの嘘も善である。
われわれは、学校において自然法的な価値観を教えられているので、善悪を数式のように無機質なものとして考える傾向にある。
しかし、善悪は人格的であり、神と人の間の人格的取り決めに基づいて決まるのである。
聖書に基づいて善悪を判断する場合に必要なのは、大前提として「これを行うことによって神の国は発展するだろうか」がある。
神の国の発展に貢献する場合には善、発展しない場合は悪。
これが大きな基準である。
ただし、「じゃあ、神の国の発展のためならば、イスラム教国に武力侵攻して現地の人々を脅かしてアラー礼拝をやめさせ、教会に来るように強制してもいいのか」という話になるが、「ノー」である。
なぜならば、聖書において「剣を取るものは剣によって滅びる」とあるから。
神の国の発展とは武力によらない。何によるのかというと、「福音宣教と弟子づくり」による。
つまり、聖書の大原則「御国建設」を前提に置きながら、該当する聖書の教えをその事例に適用することである。
それゆえ、われわれが善悪を判断するには、聖書に関する知識と神学的知識が必要になる。
聖書の一部しか見ないと、極端な見解を取るようになる。
ある島の猫はみな白ネコであった。
外に出たことのない島民は猫とは白いものだと考えていた。
あるとき他の島からやってきた船の中に黒い猫がいた。
それで島民は、猫には黒もいるのかとわかった。
これで、島民の判断力はアップした。
聖書をできるだけ読んで、広範な知識を持つことが重要なのは、判断を狭くしないためである。
「ああでもない、こうでもない」という試行錯誤をしながら学んでいかないと正確に神の御心を知ることができない。
その意味において聖書の学びがどれだけ重要かわかると思う。
自分で勝手に作った倫理コードを一生かけて守りとおしてもそれは単なる自己満足に終わる。
そういう人は神に褒められず、むしろ、叱責すらされるだろう。
2013年3月10日
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