信仰は律法の確立である
1.
聖書では、服装倒錯が禁止されている。
女は男の衣装を身に着けてはならない。また男は女の着物を着てはならない。すべてこのようなことをする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。(申命記22・5)
女装趣味は、違法である。
ある人は「これは、旧約聖書の法だから現代に適用すべきではない」というかもしれない。
しかし、聖書法は廃棄されていない。
それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。(ローマ3・31)
律法は、新約時代において確立されている。
もしわれわれが服装倒錯の法を無視するならば、それは確立したことにならない。
イエスは「律法と預言者を廃棄するためではなく、成就するためにきた」と言われた。
イエスが成就していただいたおかげで、クリスチャンは律法違反のゆえに刑罰にあうことはない。
聖くなるための懲らしめはあるが、刑罰はない。
しかし、クリスチャンにとって刑罰は消えたにしても、法は残る。
つまり、新約時代においても、男性が女装したり、女性が男装したりすることは罪である。
「信仰は律法を確立する」という原理にしたがうならば、クリスチャンは信仰によってこの法を「さらに強固なものにしなければならない」。
つまり、クリスチャン男性は「より男性らしく」なり、クリスチャン女性は「より女性らしく」ならなければならない。
世間ではユニセックス化が進んでいる。
男女の差の解消が進んでいる。
アメリカでは男性便器の存在すらも差別として否定されつつあるという。
日本でも教育の脱キリスト教化が進み、桃太郎の話で、おじいさんが洗濯を、おばあさんが柴刈りをするという設定になりつつあるという。
(文部省では)「桃太郎」は、『おじいさんが柴刈りに、おばあさんは洗濯に』が固定的な性別役割分担を助長して性差別につながるし暴力的だから、ジェンダーフリーで主人公を「ももこちゃん」にして、鬼も退治するのではなくて、仲良くする結末につくりかえて教えるようなことまでしていますね。(山谷えり子議員)
http://www.yamatani-eriko.com/old/press/press25_3.html
ジェンダーフリー運動は、サタンによる神の国破壊である。
サタンは、この世界から神の法を排除し、神の創造秩序を破壊しようとしている。
われわれは、この流れを逆流させなければならない。
男の子を男らしく育て、女の子を女の子らしく育てるべきである。
男の子にはできるだけ、男の子らしい服装をさせ、女の子にはできるだけ、女の子らしい服装をさせる。
男性は髪を短く切り、女性は髪を伸ばすほうがよい。
聖書によると、長い髪は男性にとって恥であり、女性にとって栄光なので。
自然自体が、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいことであり、
女が長い髪をしていたら、それは女の光栄であるということです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。(1コリント11・14-15)
2.
旧約律法の適用については、つねに「信仰は律法の確立である」という原則を適用しなければならない。
信仰が強くなればなるほど、律法をより高いレベルで守るようになるはずである。
そのため、クリスチャンは、信仰が強くなればなるほど、律法を研究したいと思うはずである。信仰の成長は、より高い次元での律法の遵守に導くはずである。
「縛られるのは嫌だ」という感情が起きるならば、それは「神を主としたくない」という思いがあるからであり、自分が本当に救われているかどうか疑ったほうがいい。
自分の中で誰が神なのか。
己が神になっていないか。
聖霊がわれわれのうちにおられるならば、当然のことながら、律法の研究と、その実行に動くはずである。
なぜ今のキリスト教界が、同性愛容認の方向に動いているのか。
聖霊がいないからである。
聖霊がいらっしゃるならば、神の法に対する高次元の実行へと向かうはずであり、われわれの活動を評価するはずである。
ジェンダーフリーや同性愛容認の方向に進むキリスト教界は、背教の中にいることがこれでわかる。
2016年8月5日
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