自立するには王道を歩まねばならない
この年齢になると、自分ができることが何か、人生で何をしなければならないかが固定化される。
あまり迷わない。
外から見ると、ずいぶんとマイペースというかわがままというか、傍若無人、傲慢に見えるだろうが、仕方がない。それしかできないから。
周りに笑顔を振りまいて、対人関係に一喜一憂し、人の顔色に振り回されるような年齢ではない。
それは、若いころに十分に体験した。
若いころは霊的な攻撃によってアップダウンが激しかったが、今は原因がわかったから安定した。
こういう霊的な世界の原理を、若いころに教えてもらっていたらどんなに楽だったかと思う。
気分が上下するのは、自然現象ではなく、「攻撃されているから」なのだ。
クリスチャンになって、本当に用いられるために砂漠の訓練の中に入ったから、攻撃されているのだ。
ノンクリスチャンの時代に、人間関係がすべてだった。
人に嫌われることは致命的だった。
クリスチャンになって幼いときは、まだその癖が残っている。
しかし、経験を積んでいくにつれ、次第に人間が何をしようが関係ないとわかってくる。
恐れる対象は神しかいないとわかってくる。
たとえば、看板があるとする。店先に置いてある立て看板。
倒そうと思えばすぐに倒れる。
よく酔っ払いが蹴っ飛ばして倒れていることがある。
しかし、その看板をビルに張り付けたらどうだろうか。
倒れない。
蹴っ飛ばしても倒れない。
それと同じように、われわれも自分だけで立っているとすぐに倒れるが、神に依存するならば倒れない。
ぴったりと神に寄り添うのである。
そうすれば、蹴っ飛ばそうとする人は、恐れを抱くだろう。
自分が攻撃している相手の背後に誰かいる、と察知するだろう。
組織に頼っている人は、ちょっと大きめの立て看板である。
倒すのが難しいが倒れないことはない。
日本人の信仰は、社会的習慣もあって、組織崇拝である。
教会に入れば、教会の人間になる。
大きな組織に入れば安心する。
しかし、自立していないという点では同じである。
組織崇拝を行うような教会に居ても自分は鍛えられない。
神学校に入ると、牧師が組織崇拝を強要してくる。
神に頼らせるように指導するのではなく、人に頼るように強制する。
私は教会を去ろうとするときに「君はここを出てどこに行くのかね。」と言われた。
つまり、私の群れを出た人間を受け入れる組織などないぞと脅すのである。
このレベルである。
指導者自身が自立していないのである。
世間、つまり、キリスト教界において受け入れられることが至上命題なのである。
くだらない。
「一人で吠えても、誰も見向きもしないぞ」とかも同じ。
キリスト教界に受け入れられたからといって、何か実利があるわけでもない。
もし私が商売をやっていて、有力な政治家とつながり、利権にあずかることができ、毎月、自動的に何百万のお金が入っているなら、まあある程度説得力はあるが、キリスト教界で有名になるとか、有力な牧師のお墨付きをもらうとか、どうでもいい。
そんなチマチマした配慮のために一生を使いたいだろうか。
そんなにわれわれの命は安っぽいのか。
われわれの命は真理のために使うべきではないか。
そのためなら、あらゆる人間関係を犠牲にしてもいい。
一生異端児と呼ばれてもいい。
聖書的な教えのために戦うことができれば、どう思われてもいい。
われわれのターゲットは、キリスト教界で重鎮と呼ばれるようになることではない。
悪魔の国を破壊することだ。
神の国を拡大することだ。
それだけを考えればいい。
だから、われわれが頼るのは神おひとりでいい。
神に頼っていれば、ほかは何もいらない。
いずれ必要なものは与えられる。
組織に頼っていても、敵にばかにされるだけだ。
蹴っ飛ばせば、倒れるから。
だから、悪魔側でもそんな人間は相手にしない。
われわれは、神だけに頼るから、安定している。
周囲の人も、「この人には何か大きなものがついている」と察知する。
そして、恐れる。
自立するということは、真理に頼ることであり、それなるがゆえに、人間関係に時間を使うのではなく、知識を得て、聖書的な教えを求めることに時間を使う。
私は、自分の出た学校とか神学校とは無関係に知識を得てきた。
それは、おもに読書を通じてである。
かなりの本を読んだ。
考えに考えぬいて、上にあるものを求めた。
一つ一つ階段を上るように、論理的に不完全なものを土台にしないように、一段一段を慎重に踏んできた。
だから、人から聞かれても答えられる。
こういった歩みこそが、自立だと思う。
ごまかさず、歴史的に妥当な、正当な道をたどるのである。
自分勝手をできるだけ排除し、普遍的に誰でも納得できるようなものを追究してきた。
単なる「ナルチシズム」とか「ロマン」とか「趣味」のようなものではなく、歴史的に積み上げられてきた正当なものを求めてきた。
こうした努力を、未来の世代の人もやってほしい。
2000年、誰も言っていなかったこと、のようなものはそう簡単に編み出せるものではない。
それは、十分に過去のものを知ってからだ。
翻訳をやっていて思うのは、文法の知識、単語の知識などがいい加減な人は、誤訳をする。
翻訳をやりたいなら、辞書をボロボロにする覚悟がなければならない。
私は何冊もボロボロにしてきた。
ちょっと不安ならば、それをあいまいにしたまま翻訳できない。
徹底して調べる。
こういう正当な手順を踏めないようならば、翻訳してはならない。
それと同じように、「チョロイもんだ」みたいな感覚の人は何をやってもダメ。
神学も同じで、「神学にこだわるな」なんていう牧師について行ってはならない。
そいつは偽物だ。
そんな安っぽい世界ではない。
2000年の積み上げがある。
ニケア、カルケドン、ウェストミンスター、ヴァン・ティル…
知の積み重ねがあって、正統派がある。
今、ほとんどの教会は、亜流もしくは異端である。
正統派を嫌う。
だから、牧師ですら基本的な知識がない。
そのため正しいか間違っているか判別がつかない。
フラー神学校やディスペンセーショナリズムみたいなものに騙されているのは、基本的な知識が欠落しているからだ。
独立とか、自立は、正統なものを追究し、マスターすることによってのみ得られる。
こういう地道な努力があってはじめて成立するものであって、単に家出をするような感覚では失敗する。
実力をつけて、自立するならば、神だけに頼れるから、組織とか人間などに振り回されない。
日本人は、基礎を大切にする民族である。
だから、欧米に追い付き、追い越しつつある。
外見だけを追究する中韓の民族のようではない。
私は、今の張りぼてキリスト教は日本人に合わないと思う。
アメリカの教会の支援を受けて、考え方までそっくりそのまま真似ているようなレベルではだめだ。
金銭的にも自立し、自分の頭を使って苦労してはじめて日本人に受け入れられるような水準のものができる。
そういう意味において、われわれは正しい努力をしなければならない。
2015年2月23日
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