紀元70年頃に携挙された人々は救いの「初穂」だった
1.
再臨が未来に起こると考える未来派の人々は、携挙も未来に起きると考える。
しかし、再臨が紀元70年に起きたと考える過去派の人々(プレテリスト)は、携挙も過去に起きたと考える。
プレテリストの間でも、携挙についていくつかの説に別れる。
https://www.preteristarchive.com/Hyper/2002_hibbard_rapture.html
まず、「地上在留説(Remained-on-Earth Views)」(1)と「逐語的理解説(Taken-to-Heaven Views)」(2)の2つに大別できる。
(1)は文字通りの物理的昇天はなかったと考え、(2)はあったと考える。
(1)は主に、次の3つに細分化できる。
A.「集団説(Corporate View)」、B.「天国現在説(Heaven Now View)」、C.「契約的変化説(Covenantal Change View)」。
それぞれの内容については、既述のURLのページをまとめた以下のテキストを参考にしていただきたい。
http://www.millnm.net/qanda4/What_happened_after_Rapture.txt
2.
未来派の解釈は間違っている。
なぜならば、パウロは紀元1世紀に生きていたテサロニケのクリスチャンに対して「あなたがたが生き残っている間に起きる」と明言しているからである。
「私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(1テサロニケ4・15-17)
事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。(1コリント1・21)
しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。(ローマ10・14)
主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。(ローマ13・14)
こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8・1)
2018年3月29日
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