献身者は神殿の聖具である


神の働きをしている人々、とくに、教えに携わっている人々が特殊な人間であると理解するのに時間がかかった。

彼らは「神の国の中で中心的な活動をするようにえり分けられている」という意味において特殊である。

クリスチャンは誰でも尊いが、これらの活動をするように召されている人は、特別に尊い。

それは、本人の資質のゆえにではなく、職責のゆえに尊い。

これが長い間わからなかった。

自分を普通の信者と同一レベルで考えるといろいろ不都合な目にあう。

献身者は、神との関係でしか自分の行動を規定できない。

これは、実質的に「行動の自由はない」ということを意味する。

たとえば、現代のレビ人として選ばれた人々は、お金に困っても世俗の会社に入って仕事をすると呪われる。

神殿の聖具として選ばれた器を、家庭の道具に使うと呪われるように呪われる。

ここで「呪われる」というのは、「祝福されない」という意味である。

献身の決意をした人が世俗の仕事について成功するなどということはない。

ヨナが嵐に巻き込まれたように、献身者もえらい目に合う。嵐にあって、本来ならすんなり行く道も、前に進めない。

自分の子供が献身をして神の教師となり、神学を勉強し、牧師や教師などとして働くと決意したならば、そこで子供は自分の手を離れ、神の所有になった。

それ以降も、同じように自分の息子や娘と考えていると、肩透かしを食らう。

献身者として活動し、御言葉の研究と伝道に従事しているような人に向かってバカにするような言葉、中傷、非難など軽々しくすべきではない。

反動が普通の人の比ではない。

この知識がなかったときに、普通の人に対するように献身者に接したためにいろいろ呪いを被った。

自分が相手にやったことは、そっくりそのまま自分に返ってくる。

それは、即時に起きる場合もあるし、30年、40年たって起きる場合もある。

しかし、献身者に対して自分がやったことは、いつか何らかの形で自分に返る。

献身者の側は、「環境で進むべき道を選ばずに、神からの示しによって選ぶ」ということを徹底して求められる。

神の所有となった以上、勝手に、世俗的な常識で判断して進むことはできない。

レビ人は、もはや普通の家族、友人、同僚ではないのだ。

もっぱら神殿のために用意された人であり、それ以外の世俗のことには利用できない。

 

 

2015年7月3日



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