超越者と非超越者の区別を曖昧にしてはならない
超越者と非超越者の区別は、聖書的キリスト教の基本である。
われわれは、イエス・キリストにあって王権を与えられた。
聖書では「王である祭司」と呼ばれている。
被造物を支配する役割を与えられた。
イエス・キリストと教会は一体である。
一体だからといって、教会が神になるわけではない。
この一体は、契約的一体である。
存在論的・実際的一体ではない。
人体の各細胞は、一人の人間において互いに一体であるが、細胞膜を失って実際的に一体化したら死んでしまう。
人間はどこまで行っても人間である。
被造物はどこまで行っても被造物である。
神になることはない。
法の上にいる存在と、法の下にいる存在の区別こそ、もっとも重要である。
なぜならば、エデンの園においてアダムが失敗したのがこの点においてだったからである。
神は超越者であり、法の上にいるが、人間は非超越者であり、法の下にいる。
法の制定者である神はいかなる法にも縛られないが、人間は神の法に縛られている。
人間がなぜ救いを必要とするかというと、法の下にいるからである。
法を破れば刑罰が来る。
もし神が法を破った者に裁きを下さなければ、神ご自身がその法体系を否定したことになり、神は主権者ではないということになる。
警察や裁判所が、違法行為を見逃してそのままにしたら、法律が存在しないのと同様である。
スピード違反をしても警察が取り締まらなければ、道路は無法状態になり、交通事故が多発する。
日本のマスコミが外国人に乗っ取られたのは、妥協を繰り返したからである。
https://www.youtube.com/watch?v=g7fPjbtav-4
それゆえ、神が人間を裁かれるのは、主権者として当然の行為であり、もし「愛の神が人を地獄に落とすはずがない」と考えているならば、その人は「神は主権者ではない」と言っているのと同義である。
神は罪を犯した人間を赦すことをよしとされた。
そのために、御子を人間として生まれさせ、その御子に人間の罪の刑罰を課して十字架で処刑された。
ここに神は、主権性と、被造世界の秩序を維持しつつ、人を赦すことが法的に可能になった。
法の下にいる人間には、イエス・キリストの代償的死による救済が必要である。
被造物である以上、人間は、神の法から逃れることは不可能なので、刑罰を回避するには、イエス・キリストを信じるしか方法はない。
超越者と非超越者の区別を曖昧にし、人間を神の法の下に置かず、法を犯しても刑罰がないという思想は、非合理であり、秩序を根底から破壊する。
2018年5月18日
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