この使命に集中しよう


1.

クリスチャンは、エデン山の中腹にあるエデンの園に住む。

祝福の水は、エデンの園から出るわけではない。

それは、山頂から来る。

雨が降って山頂から流れる川がどんどん大きくなり、エデンの園に流れ込む。

そして、そこからさらに下流に流れていき、平野を潤す。

クリスチャンは祝福の根源ではない。

祝福の根源は、山頂に臨在する神である。

神以外に祝福の源はないのであるから、クリスチャンが祝福されるには、神との関係をしっかりとしなければならない。

山頂から流れる川が、エデンの園に入る前にいろんな支流を作って水が脇道にそれてしまうならば、エデンの園に流れる水量は限られる。

サタンは、しきりに、エデンの園に入る前のところで勝手に溝を掘ってそちらに流そうとする。

今日、祝福が悪魔崇拝者に流れて、クリスチャンのほうに来ないのは、サタンの土木工事を祈りによって妨害しないからである。

神に願って、「サタンが途中で溝を掘ってこちらに流れるべき祝福を自分の手下のほうに流しています。サタンの溝を破壊し、こちらに水が流れるようにしてください」と祈るべきである。

神が願っておられるのは、祝福のチャンネルのクリスチャンへの一元化である。

全部の祝福の水がエデンの園にいるクリスチャンに流れて、そこで一元化され、そこから、平野の各部分に流れるようにすることが神の計画なのである。

そのため、われわれは、そのために熱心に祈らねばならない。

2.

何をやるにしても、祝福がなければ、どうしようもない。


主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。(詩篇127・1)

建設業者の側で、懸命に努力しても、祝福がなければ、破壊工作員が送り込まれ、積み上げたレンガはガラガラと崩されてしまう。

町の城壁の多数の箇所に警備員を配置しても、祝福がなければ、敵が隙をついて侵入し、町はめちゃめちゃにされる。

伝道集会の責任者をやったことのある人ならばわかると思うが、祈りが積まれていない集会は「すかすか」である。

御霊の働きが弱いため、メッセージが語られ、音楽が鳴らされても、感動がない。

御霊の働きが強い集会では、わずかなメッセージと貧弱な音楽でも、多くの回心者が得られる。

われわれの働きの中心は「祝福の伝達」である。

神から来るものを、中継するのである。

神から来るものが少なくて、自分たちが作ったものがメインになっても意味がない。

世の人々が必要としているのは、「クリスチャンの業」ではなく「聖霊の御業」である。

そして、われわれの存在意義は「人間の祝福を分け与えること」ではなく「神の祝福を分け与えること」である。

人々にすばらしいメッセージと音楽を提供するだけなら、ノンクリスチャンでもできる。

ためになるお話や、すばらしい音楽、感動を与える演劇、有益な技術…は、クリスチャンでなくても与えることができる。

われわれがこの地上に置かれているのは、そのようなものを提供することではなく、神から来る祝福による「超自然的な恵み」である。

3.

「超自然的な恵み」とは、体験したことのある人なら容易に理解できるだろう。

なにもかもが違うのである。

神からの音楽は、どんなに技術が優れた音楽家でも表現できないものである。

それは「質的にまったく異なる」。

この世にはないものである。

私が大学生だったころ、教会には、このような「超自然」があふれていた。

大学のクリスチャンのサークルもそれに満ちていた。

現在のクリスチャンがまったく想像もできないような栄光と聖さと興奮と霊的な感動があった。

今の世界は「すかすか」である。

いやむしろ、悪霊の住処である。

4.

1990年から世の中の雰囲気は大きく変わったように思える。

私が教会で裁判にかけられたときに「教会は裁かれる」と直感した。

明らかに聖書的なメッセージを携える再建主義を断罪したのだから。

「神の法を社会に適用しようとする教えは危険だ」と。

神の法に敵対する心とは、神に敵対する心である。

神の国の発展とは「灰色が白と黒に分離する」過程の連続である。

良い麦と毒麦が混在する畑から毒麦を除き去る過程である。

だから、福音派から聖さと霊的な感動が失われ、俗物化していった1990年以降の過程は、神の国の発展なのである。

今、ほとんどすべてのキリスト教が焼け野原になり、異端の教えに満ちているのも、神の国の発展なのである。

なぜならば、神が「羊と山羊を分けられた」からである。

聖書に忠実であろうとするグループが、そうではないグループから分離したからである。

多くのクリスチャンが、焼け野原の中を、行き場を失ってさまよい歩いている。

5.

われわれが聖霊の器と称賛していたビリー・グラハムは「イエス・キリストなしでも神の民となれる」と公言している。

https://www.youtube.com/watch?v=yTMRgc4yB0w

無律法主義と化した福音派を抜け出た人々が逃れ場として向かった再建主義の中にフェデラル・ヴィジョンの異端が入り込み、多くの再建主義者が行為義認を信じるようになった。

サタンは人々を追いかけて、次から次へと逃れ場をつぶしている。

そこで、エリヤは民に向かって言った。「私ひとりが主の預言者として残っている。(1列王記18・22)

預言者として残ったのはエリヤ一人だけであった。

しかし、いつの時代も、神はレムナント(残りの民)を残しておられる。

しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」(1列王記19・18)

神は、世界中にいるレムナントを集め、さらに純化された神の国を拡大しようとしておられる。

6.

われわれはエデンの園の住民として、神の祝福を人々に伝えるために選ばれた。

この使命に集中しよう。

 

 

2017年4月20日



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