限定的贖罪の意味


その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。(コロサイ1・20)

キリストの贖罪の範囲は、宇宙大である。

万物がキリストによって贖われたのである。

「地にあるものも天にあるものも、万物を・・・和解させてくださった」のである。

しかし、聖書は同時に「贖罪は限定的である」と教えている。

その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、
「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。
それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。
神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。
したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。
聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と言っています。
こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。(ローマ9・11-18)

安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した。
テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。
そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください」と言って頼み、強いてそうさせた。(使徒の働き16・13-15)

神は、ヤコブを選び、エサウを拒否された。

神は、集まった女たちの中でルデアの心だけを開き、バプテスマを授けられた。

キリストの贖罪の効力の範囲は宇宙大であるが、実際の適用は限定的である。

キリストは万物を神と和解されたが、実際にその和解が適用されるのは信仰した者(及び信仰した者が神のためになした業)だけである。

贖罪が適用されない人は、特効薬があるのに、それを飲まない人に似ている。

マラリアの特効薬があっても、それを飲まなければマラリアから解放されない。

信じない限り、贖いは自分に適用されない。

万物は法的に神と和解しているのだが、信仰がなければ、その人の業は汚れたままである。

きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。(テトス1・15)

カルヴァン主義の5特質における「限定的贖罪」は、「キリストの贖罪の効力の範囲は普遍的であるが、同時に限定的である」という教えである。

神は選んだ人に信仰をお与えになる。選ばれた人には贖いが適用されるが、選ばれていない人は信仰がないので贖いは適用されない。

2.

キリストの贖罪によって万物は法的に聖化されているのだが、実際的には聖化されていない部分がある。なぜならば、予定されていない人が、汚れた動機で事を行うからである。

クリスチャンには、法的に聖化された世界を、実際的に聖化された世界に変える責任がある。

クリスチャンは、あらゆる事柄を、神の栄光のために行い、万物が実際的に神のために機能するように働く「和解の使節」である。

3.

蛇足:

「限定的贖罪」に関して誤解がある。「贖罪はその効力において最初から制限されている」つまり「贖罪の範囲は宇宙大ではない」という誤解である。

限定的贖罪について、Wikipediaには次のように記されている。

"Limited atonement", also called "particular redemption" or "definite atonement", asserts that Jesus's substitutionary atonement was definite and certain in its purpose and in what it accomplished. This implies that only the sins of the elect were atoned for by Jesus's death. Calvinists do not believe, however, that the atonement is limited in its value or power, but rather that the atonement is limited in the sense that it is intended for some and not all. Some Calvinists have summarized this as "The atonement is sufficient for all and efficient for the elect."[81]
(「特別贖罪」または「明確的贖罪」とも呼ばれる「限定的贖罪」説は、イエスの代償の贖いがその目的と、それが達成したことにおいて明確かつ確実であったと主張する。これは、選ばれている人の罪だけがイエスの死によって贖われたことを意味する。しかし、カルヴァン主義者は「その贖いがその価値や効力において制限されている」とは信じず、むしろ、「贖いは一部の人々を対象としており、万人を対象とするものではないという意味で、贖罪は制限されている」と信じる。カルヴァン主義者の中には、これを「償いは万人にとって十分であり、選ばれている人々にとって有効である」と要約する者がいる。[81])
https://en.wikipedia.org/wiki/Calvinism#Five_points_of_Calvinism

Calvinists do not believe, however, that the atonement is limited in its value or power, つまり、カルヴァン主義とは「贖いはその価値や効力において制限されたとは考えない」。

これはコロサイ1:20(その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです)と矛盾しない。

贖いの効力は宇宙全体に及ぶ。しかし、その効力が実際には普遍的には適用されない。

the atonement is limited in the sense that it is intended for some and not all つまり、選ばれた人以外には適用されないようにあらかじめ設定されているということである。

この意味において、TULIP(カルヴァン主義の5特質)の限定的贖罪は「贖いは普遍的に効力を有するが、その適用は限定される」という意味である。

「キリストは、もともと選ばれた人のためにしか死なれなかった」という考えは、もともとのTULIPの考え方と矛盾する。

「キリストは全宇宙の贖いのために死なれたが、選ばれた人以外は適用されない」がオリジナルのTULIPの意味である。

 

 

2018年2月14日



ツイート

 

 ホーム

 



robcorp@millnm.net