殺人に処刑で報いなければ社会全体に裁きが下る


川口市で起きた殺人事件。

生い立ちを考慮して、2人殺した18歳の少年に懲役15年。

どんどん少年の殺人が増えるでしょうね。

殺される側はたまったもんじゃない。

狂っている。

司法は。

1万円盗んだら、1万円以上のもので償わねばならない。

これは当たり前。

人の命を奪った者は、命を奪われる。

これも当たり前。

なぜならば、社会は犯罪者よりも遵法者を尊重しなければならないから。

学校で、遅刻早退を繰り返す学生を、成績優秀なまじめな学生よりも尊重したら、教育ができなくなる。

秩序が破壊されるから。

ある運動競技の試合で、ルール違反を繰り返す選手を尊重し、ルールを守る選手を罰するなら、その競技はやる人がいなくなる。

バカげているから。

こういうばかばかしいことを平然とやってのける司法は有害そのもの。

司法試験とか意味がない。

聖書を学ばなければ、善悪の判断はできないのだ。

左翼思想に毒された司法は、世界を破壊している。

流された血の責任を犯罪者に問うために国家は与えられた。

神は為政者に対して、正義を行うように求めておられる。

この要求に答えないので、今の司法は、呪われている。

そして、その司法を許している日本国も呪われている。

聖書では、野において殺人被害者の遺体が見つかった場合に、その場所から一番近い町の祭司と長老が出て行って、近くの谷で子牛の首を折る儀式を行った。


あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられる地で、刺し殺されて野に倒れている人が見つかり、だれが殺したのかわからないときは、
あなたの長老たちとさばきつかさたちは出て行って、刺し殺された者の回りの町々への距離を測りなさい。
そして、刺し殺された者に最も近い町がわかれば、その町の長老たちは、まだ使役されず、まだくびきを負って引いたことのない群れのうちの雌の子牛を取り、
その町の長老たちは、その雌の子牛を、まだ耕されたことも種を蒔かれたこともない、いつも水の流れている谷へ連れて下り、その谷で雌の子牛の首を折りなさい。
そこでレビ族の祭司たちが進み出なさい。彼らは、あなたの神、主が、ご自身に仕えさせ、また主の御名によって祝福を宣言するために選ばれた者であり、どんな争いも、どんな暴行事件も、彼らの判決によるからである。
刺し殺された者に最も近い、その町の長老たちはみな、谷で首を折られた雌の子牛の上で手を洗い、
証言して言いなさい。「私たちの手は、この血を流さず、私たちの目はそれを見なかった。
主よ。あなたが贖い出された御民イスラエルをお赦しください。罪のない者の血を流す罪を、御民イスラエルのうちに負わせないでください。」彼らは血の罪を赦される。
あなたは、罪のない者の血を流す罪をあなたがたのうちから除き去らなければならない。主が正しいと見られることをあなたは行なわなければならないからである。(申命記21・1-9)

この律法は、罪に対して代償が必要であることを示している。

「誰が殺したかわからないから放置しよう」というわけには行かないのだ。

神は、代償を支払わない限り、社会にその罪を負わせられ、呪われる。

この事件では、一番呪いを受けやすいのは、殺人があった場所から一番近い町である。

人間の目ではどこに犯人がいるかはわからない。

しかし、「わからないからいいや」というわけにはいかない。

一番近い町に犯人がいる可能性が高いという一般論が適用される。

そして、その祭司たちが、罪の償いをさせる。

祭司は、人の罪のとりなしをするために与えられた職だから。

人間の代わりに誰を犠牲にするかというと、雌の子牛である。

何をするかというと首の骨を折る。

どこでかというと、「まだ耕されたことも種を蒔かれたこともない、いつも水の流れている谷」である。

これらの要素は、みな純潔性、罪のない者を象徴する。

罪のない子牛が、町民のために命を落とす。

雌は、神の妻であるイスラエルを示す。

子牛は、まだ誰の妻にもなっていない無所属の状態を示す。

つまり、ただ神に対して献身している純潔なイスラエルの理想形を示す。

首の骨を折るのは、犠牲の完全性を示す。

罪のない者が命を奪われることを象徴する。

「まだ耕されたことも種を蒔かれたこともない」は、人間の手によって汚されていない場所で純潔を、「いつも水の流れている谷」はイスラエルに与えられた祝福を象徴する。

「刺し殺された者に最も近い、その町の長老たちはみな、谷で首を折られた雌の子牛の上で手を洗い」は、祭司のとりなしの業に対して、民の代表である長老たちが、罪のあがないによる自分の潔白を宣言する。

これを行わないならば、「罪のない者の血を流す罪」を犯したことになり、「主が正しいと見られること」を行っていないことになる。

つまり、殺人は必ず犯人が処刑されるか、処刑されない場合、純潔の犠牲すなわちキリストを身代わりに神にささげる以外にはない。

今の日本政府は、このどちらも行っていないばかりか、見つかって犯行が明らかであるにもかかわらず、処刑をためらっている。

結局、この罪はその司法をいただいている日本国民の上にかかる。

われわれは、殺人者を処刑しないことによって、呪いを積み重ねているということを自覚すべきだ。

いつか、われわれが殺人の罪のために、処刑されることになる。

戦争や災害での死亡の遠因は、われわれが正しくさばいていないことにある。

 

 

2014年12月26日



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