人は信仰のみによって救われる
フェデラル・ヴィジョン(オーバン・アヴェニュー神学)は、行いによる救いを唱えるので異端である。
私がかつて所属していた教会は、フェデラル・ヴィジョンを採用したので、異端になった。
行為義認を信じることは、軽微なミスではなく、確実に人を滅ぼす。
所属していた最後のころには、教会制度に対する異様なこだわりが見られた。
行為義認に傾くと、ハイチャーチ化(儀式中心主義化)が起きる。
パウロが述べたように、「割礼を受けているか受けていないかは重要なことではなく、新しい創造こそが重要」なのだ。
この「新しい創造」を重視する人々こそが、「神のイスラエル」であり、儀式や教会のメンバーシップを重視する人々はパリサイ人である。
新しい創造は、信仰のみによって起きる。
イエスを救い主として、人生の主として受け入れることによってのみ救われる。
そのときに、われわれは生まれ変わり、アダムを先祖とする人間のグループから出て、イエスを先祖とする人間のグループに入る。
イエスの御体である教会の一部になる。
しかし、行為によって救われると主張するならば、そのときにイエス以外の救い主を求めたことになるので、イエス契約から追い出される。
その典型は、カインである。
カインは、礼拝において犠牲を捧げなかった。
アベルは、犠牲を捧げた。
人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た」と言った。
彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、
アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。
だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。(創世記4・1-5)
私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。(ガラテヤ1・9)
2014年12月11日
ホーム