キリスト教再建主義の五条件3
3.神法主義
神が人間に地上を統治させるにあたり、法をお与えになった。
聖書に記されたすべての法は、万人に適用される。
人間は神の前にこの法に対して責任を負っており、それに対してどのように対応するかによって、祝福と呪いを受ける。
アダムにおいて人類は堕落し、罪を相続するので、生まれながらに罪人である。
契約は、子孫とも結ばれるからである。
アダムが堕落したときに、子孫も堕落した。だから、そのままでは呪いをこうむる。これは、地上における不作、病気、死である。罪責は神に対するものなので、永遠に支払うべきものとなる。
この永遠の呪いを回避するために、神は犠牲制度を設定された。
それが、イエス・キリストによる贖いである。
イエス・キリストの贖いの予型が動物犠牲の制度である。モーセ律法の動物犠牲制度は、来るべきキリストによる贖いを指し示すものである。
人間は、神と贖いの契約(恵みの契約)を結ぶことによって、自分の罪の責任をイエス・キリストに負わせることができる。
イエス・キリストが身代わりに罪責を負って処刑されることによって、自分も処刑されたと神がみなされる。
だから、贖われた人間は、契約の民となり、それゆえ、罪を赦され、永遠の命と報いを受けることができる。
これ以外に神が用意された犠牲は存在しない。人間は、イエス・キリスト以外によって救われることは一切ない。
他の宗教は、行為義認である。自分の善行を積むことによって神の前に義となるとする。
しかし、聖書は、自分の善行には絶えず罪が伴うので、無効であるとする。人間は、善行を行うたびに、様々な罪を犯す。たとえば、善行をするたびに「自分はなんてすばらしい人間なのか」と慢心する。
人間の善行とは、土足で家の中に入って掃除するようなものだ。掃除するために動き回れば回るほど汚れをつける。
神が受け入れられるのは「完全な義」である。神は、一点の不義も赦すことができない。法を制定された以上、違反を処罰せざるを得ない。
だから、罪深い人間を赦すには、罪を犯したことのない人間であるイエス・キリストを身代わりに処刑する以外にはない。
また、非常に多くの人々の罪を贖うためには、その犠牲は神でなければならない。無限の命を持つキリストだけが無数の人々の罪を贖うことができる。
だから、イエス・キリストは人間であると同時に神でなければならない。
イエス・キリストを信じて契約の民に加えられた人々は、神の僕である。
それゆえ、神の法を守って神の市民としての義務を果たさねばならない。
罪責を取り除かれたが、支配者への服従の義務は継続して帯びている。
神の法を無視することは、神を支配者として認めないことであるから、契約から追い出される。
それゆえ、クリスチャンが神の契約の中にとどまり続けるには、継続的な服従と、罪を犯した場合に悔い改めが必要である。
神に対する全的献身がなければ、神の民から排除される。
神の法は、地上世界の全分野に適用されなければならない。なぜならば、この地上に存在するすべてのものは神の領域だから。
キリストは「天地のすべてにおいて最高の権威が与えられた」と宣言された。だから、天地のあらゆる領域はキリストの国であり、神の法が適用される。
旧約聖書の律法は、イスラエルに対して与えられたものであるが、それは、全民族に普遍的に適用されなければならない。
民族的、時代的な律法は、本質を抽出して、それを全民族、全時代に適用しなければならない。
神の民は、神を主としない領域をこの世界から根絶するために働かねばならない。
ギリシャに起源を持つ自然法、カントに始まる倫理相対主義は、神の法のライバルであり、クリスチャンは、いずれも退けなければならない。
2011年4月25日
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