「聖書は何と言っているのか」が基準である


契約的思考は、われわれを自由にする。

情緒的思考は、われわれを奴隷にする。

たとえば、コーヒーを飲むことを罪と感じる人々がいる。

しかし、コーヒーは、神が人間のために与えられた植物である。

契約的思考をするクリスチャンは、罪であるか、罪でないかを「聖書の文言のみによって」判断する。

なぜならば、クリスチャンは「神と契約を結び、契約の規定にしたがって生きると誓った人々」だから。

契約の規定は、聖書にのみ記されている。

コーヒーを飲むことを罪とする箇所は聖書にはない。

だから、契約的思考をする人は、コーヒーを飲むことに罪悪感を持たないし、それによって他人を非難することもない。

日本社会は「情緒的」である。

一つの型が決まると、それから外れることに「なんとなく」罪悪感を持つ。

クリスチャンでも「情緒的思考」から抜け出せない人は、聖書に明確に禁止されていないことをタブーにし、自分や他人を縛る。

日本は幸いなことに法治国家である。

罪刑法定主義を採用している。

だから、明確に法律に違反していない限り、逮捕されたり、起訴されたり、有罪とされない。

これによって、われわれは、安心して生活できる。

中国のように人智主義の国では、共産党の気まぐれによって、善悪がコロコロ変わる。

「偉大な指導者」と祭り上げられていた人が失脚すると、その人を支持していた人までもが社会的制裁を受ける。

このような国は「液体」である。

常に揺れ動く。

日本のような法治国家は「固体」である。

人が変わっても、法律が変わらない限り動かない。

クリスチャンは、聖書契約にのみ自分の土台とすべきである。

「人の目」や「世の中の流れ」「慣習」などを聖書よりも重視する人は、偶像礼拝者である。

神を信じると決めたら、聖書以外の基準を自分に設定してはならない。

あらゆる社会的な規則を聖書に照らして判断する。

もちろん、人に躓きを与えないために、愛によって自分の自由を制限するのは妥当だ。

しかし、過剰な配慮は「人を恐れる」ことに繋がり、悪魔の罠に陥る。

基本姿勢は「人が何を言っているかではなく、聖書は何を言っているのか」である。

 

 

2018年7月21日



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