何度も何度も同じことを繰り返し言っても理解できない人がいる。
その人の知力が問題なのか。
いや、違う。
その人の内部にある抵抗する力である。
正しい言説を受け入れようとしない力である。
それがどこから来るのかというと悔い改めのなさである。
反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。(2テモテ2・25)
真理に反対するのは、悔い改める心がないからである。
クリスチャンとは、心の霊において新しくされ、それによって「真理の知識への」悔い改めを許された者である。
そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。
彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。…まさしく真理はイエスにあるのですから。
その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、
またあなたがたが心の霊において新しくされ、
真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。(エペソ4・17-24)
24節のギリシャ語を直訳すると、
「そして、真理の義と聖さの中に神にかたどり創造された新しい人を着るべきことでした」
である。(*)
クリスチャンは、新しい人を着た古い人である。
その新しい人は創造された。
つまり、以前は存在しなかった人である。
クリスチャンになる前は存在しなかった人を着るのである。
そして、古い人を脱ぎ捨てること。
この古い人は、「人を欺く情欲によって滅びて行く」。
だから、クリスチャンとは、古い人と新しい人が同居している存在である。
古い人は、情欲によって滅ぶ運命にある。
それは、そのままでは済まない。
神の知識と法に敵対する人であるから滅びる。
そういう人を捨てるべきだ。
そして、新しい人を着るべきだ。
この新しい人は、「真理の義と聖さの中に神にかたどり創造された」人である。
「真理の義と聖さの中に」において使われている前置詞「エン」は、intoという意味を持ち、変化を表す。
つまり、「真理の義と聖さ」を持つように創造されたということを意味する。
だから、クリスチャンは、真理に基づく際に義と聖さを得られるのである。
クリスチャンでありながら、真理に基づく義と聖さが得られていないのは、「古い人」が邪魔をしているからである。
新品の素晴らしい服があるのに、薄汚れてボロボロになった古い服を大事に着込んでいる。
真に悔い改めるならば、真の知識が得られる。
問題は、知性や知力にあるのではなく、「悔い改める意思」である。
(*)
原語では、
kai endusasqai ton kainon anqrwpon ton kata qeon ktisqenta en dikaiosunh kai osiothti thV alhqeiaV
http://www.greeknewtestament.com/B49C004.htm#V24
である。
この「thV alhqeiaV(真理の)」がキング・ジェームズ訳ではなぜか訳されていない。
And that ye put on the new man, which after God is created in righteousness and true holiness(KJV)
ASVではちゃんと訳されている。
and put on the new man, that after God hath been created in righteousness and holiness of truth (American Standard Version)