狭い門から入りましょう


1.


ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10・40-42)

問題なのは、42節である。

しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。

原語を見ると、この訳が「ウェストコットとホート」に基づいていることが分かる。



http://www.greeknewtestament.com/B42C010.htm#V42

他の底本とウェストコットとホートのそれとを比較する。



上は他の底本であり、下はウェストコットとホートである。

他の底本では、

「しかし、必要なのは一つだけである」と訳せるが、

ウェストコットとホートでは、

「しかし、必要なのはわずかです。いや、一つです。」と訳せる。

この個所では、

マルタが、もてなしのために忙しくしており、イエスの話に耳を傾けて座っているマリヤに手伝いをするようたしなめてほしい、とイエスにお願いしている。

つまり、ここでは、業の宗教と、信仰の宗教が対比されている。

マルタ=業による救い。

マリヤ=信仰による救い。

他の底本では、イエスは「必要なのは一つだけだ」と言われ「御言葉を聞く」ことこそ、その「必要な唯一のもの」であると言われた。

しかし、ウェストコットとホートでは、イエスは「必要なのはわずかだ」と言われたとされ、「御言葉を聞く」こと以外にも必要なことがあるかのような印象を与える。

ウェストコットとホートは、ローマ・カトリックへの傾倒で有名である。

ローマ・カトリックは、行為義認の宗教である。救われるには、イエス・キリストへの信仰のほかに、「行い」が必要だという。

ここに、ウェストコットとホートの底本に潜む隠れた意図を読み取るべきである。

ウェストコットとホート以外の底本では、イエスは「必要なのは聞いて信じることだけである」と断言されている。

しかし、ウェストコットとホートでは、「聞いて信じるだけではだめだ」という印象を与えている。

明らかに、行為義認の教えに人々を誘導している。

ウェストコットとホートの影響を受けている現代のほとんどすべての聖書は、ローマ・カトリックの行為義認へと誘導されている。

編纂の過程で、ローマ・カトリックの指導が入っているという。

現代版の数々の聖書の背後のギリシャ語本文は、バチカン(ローマ教皇庁)の監督下にあるのです。
 現代版の聖書がこれらのギリシャ語本文を使っており、このことは、聖書に何を含め、何を削除するかがローマ・カトリック教会によって決められているということを意味します。
 それで、現代版の聖書はバチカンにとって非常に好都合なものとなっており、ローマ・カトリックの数々の聖書と合致しているのです。
http://www.bible-jp.com/his/matt.html

2.

ウェストミンスター信仰告白の「教会について」で、ローマ教皇のことをantichristだとしているのは以前から知っていましたが、日本キリスト改革派教会の訳では「非キリスト、不法の者、滅びの子」とされているのを知りませんでした。「反キリスト」と「非キリスト」では大違いですが、このびっくり訳になってしまった事情をご存知ですか?
「反キリスト」は過去に出現したのでよろしくないという意見を訳に反映させたのでしょうか?
それとも、バチカンへのささやかな配慮なのでしょうか?

ウェストミンスター信仰告白(英語)では次のように記されています。

「主イエス・キリスト以外に、教会の頭はいない。ローマ教皇はけっしてそれではない。ローマ教皇は反キリスト・罪人・滅びの子であり、教会においてキリスト及び神と呼ばれるものすべてに逆らって自らを称賛する」

日本キリスト改革派教会の訳では「非キリスト、不法の者、滅びの子」とされているのですか。

非キリストというのは日本語的には「キリストに非ざる者」という意味であり、anti-Christという意味が出ていません。

おかしな訳だと思います。

どうやらエキュメニカルな流れが忍びよっているのかもしれません。

世界政府の人々は、世界のキリスト教をローマ・カトリックにおいて集約しようと長年働いています。

私たちは、ローマ・カトリックを敵として見る必要があります。

「転覆工作」の第1箇条は、「戦闘意欲の喪失」です。

つまり、敵に対する闘争意欲を喪失させるのです。

そのためにサタンは敵を「敵ではないよ」と見せます。

「仲間じゃないか。仲間どおし争うのはよくないよ」とささやきます。

マザーテレサやコルベ神父などの美談を紹介します。

そうして徐々に距離をつめて、パクっと食べようとしています。

自分を滅ぼす麻薬やギャンブルなどが、敵とは見えず、親しいものに見えてきたら、すでに「戦闘意欲を奪われている」ので、敵に取り込まれるのも時間の問題です。

N・T・ライトやフェデラル・ヴィジョンは、プロテスタントの風貌をしたローマ・カトリックです。

行為義認を教えるからです。

多くの人々が大きくて広い門から入っていきました。

私たちは、狭い門から入りましょう。

 

 

2016年8月18日



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